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短期集中連載
日本におけるCMLL世界女子王座の歴史



VOL.1

日本初!CMLL所属選手同士のタイトルマッチ



 CMLLはメキシコではもちろんのこと、世界のどの団体よりも最古の歴史を持つプロレス団体だ。創立は1933年。実に81年にもわたる。CMLLへ派遣された日本人選手は皆、その規模や組織の大きさに驚く。テレビ中継は地上波で世界20か国に放送され、毎週ゴールデンタイム放送がある。
 そして、メディアの注目度も高く、現地の新聞や雑誌、テレビなどがこぞって取材に訪れる。聖地・アレナメヒコは日本武道館クラスの会場であり、ここで週に2度の定期戦、月に1度の特別興行が行なわれる。
 女子部の創設は1990年。当時、全日本女子プロレスが創設より1年後の91年10月に提携し、山田敏代&井上京子をはじめとし、その後、2選手づつ派遣していた。CMLL女子部と、日本における女子プロレスの大きなパイプ役となったのがブル中野だ。92年6月には初代女子王座決定トーナメント戦が12選手参加のもと行なわれ、ブルが決勝でローラゴンザレスを破り優勝。初代王者に輝いた。その後、幾度となく存亡の危機を迎えた女子部であるが、休止を経て2004年から再開すると、活況を取り戻す。
HIROKA  再び日本との接点をもたらせたのは、LLPWを退団後、単身メキシコへ渡っていたHIROKAだ。HIROKAはレヴン寛香の名前でデビューを果たすものの、特にこれといった活躍をすることにくメキシコに活路を求めた。再開後、王者に君臨していたマルセラからアレナメヒコにて奪取したニュースは日本でも大きな話題として取り上げられた。
 HIROKAはタイトル奪取後、日本からのオファーで凱旋帰国。その直前でレディアパッチェにタイトルを奪われ、丸腰での帰国とはなったが、世界王者としての貫録や風格を身に付けていた。
 HIROKAは約1カ月、マルセラとともに『格闘美』をはじめとし、各団体へ参戦。背後から相手を抱えて前方に落とす必殺技を引っさげていたものの、名前を特に付けていなかったことで、宿泊先にしていた都内の日本人宅で夜通し考えたものだ。その後、「ムエルテ・デ・クリスト」と名づけ、各団体で連戦連勝を飾った。
 2010年にはレディースリングの泉井弘之介がCMLL女子部の日本での窓口となる。その第一弾として、9月にはCMLLへ栗原あゆみが初の遠征を果たす。栗原は聖地・アレナメヒコでデビューを果たしただけでなく、第2戦目にはメキシコ生誕200周年特別興行というビッグマッチへ出場。一気にエストレージャの道へ駆け上った。以後も栗原は定期参戦を繰り返し、メキシコ全土にブームを巻き起こした。またRayも同ルートによりCMLL参戦の道を開く。さらに翌年5月には、新たに誕生したREINA女子プロレスとCMLLの橋渡しをおこなった。
 REINA旗揚げ戦では当時、20度の防衛回数を重ねていた絶対王者・アマポーラがライバル・マルセラの挑戦を受けてタイトル戦を行なった。

▼2010年5月8日 CMLL世界女子シングル選手権試合時間無制限3本勝負
 アマポーラ(2−1)マルセラ
[1]マルセラ(7分27秒/変形サーフボードストレッチ)アマポーラ
[2]アマポーラ(2分43秒/エル・プルポ)マルセラ
[3]アマポーラ(5分9秒/デビルウイング→片エビ固め)マルセラ
※第12代王者が21度目の防衛に成功。

マルセラVSアマポーラ
 日本で初めてCMLL所属選手同士のタイトルマッチが実現。久々の来日となるアマポーラに来日経験豊富なマルセラが挑む図式で、3本勝負により争われた。グラウンドでの攻防から鮮やかなコルバタを見せたマルセラは、場外のアマポーラにエプロンで助走をつけてのトペ・コンヒーロ。肩に担いだアマポーラを自身のヒザの上に落とすと、変形のサーフボードストレッチで両腕を極めて1本を先制。しかしアマポーラは変形のカンパーナでマルセラを吊り上げてギブアップを奪い、スコアをイーブンに戻す。勝負のかかった3本目は互いにリバース・ゴリースペシャルを掛け合う攻防からアマポーラがロープの間をすり抜けるトペ・コンヒーロを発射。マルセラはミサイルキックやダイビング・フットスタンプで追い込むが、最後は王者が開脚して尻もちをつくフォームのダブルアーム式フェースバスターで3カウント。試合後は握手をして抱き合うと2人で手を上げた。