4) 日野町(滋賀) : ひな祭り、町屋めぐり 2016年花・鳥・その他に戻る 3月3日のひな祭りの時期、滋賀県日野町では、街をあげて「日野ひなまつり紀行」が行われる。このイベント、街を巡る時を巡ると案内にあるように 昭和の時代、昔見たような懐かしさを感じる街並みが随所にある。清水町、大窪町、越川町、村井本町、下鍛冶町、このような町の家々では、江戸時代のから、現代の手作りのものも含め、多くのおひなさまが飾られる。日野町は、一足早い春を見つけに来てくださいとひな祭りを紹介している。紹介によると、200箇所ほどの民家、商家、商店・街角に、おひなさまが飾られ、街中、おひなさまであふれる。これに合わせ、日野の名物、日野菜漬、あられ、和菓子、日野の伝統漆器「日野椀」、創作人形、陶芸作品などが販売される。日野うどん、甘酒、ぜんざい等が各所に設けられたお休み処で賞味できる。特別なお弁当や、「ひなまつり御膳」を味わうこともできる。日野祭の祭囃子の演奏、人力車の登場もある。訪問した『近江日野商人館』では、江戸時代から現代までのたくさんのおひなや和紙人形、300点が展示される。更に日野の文化と歴史を紹介するイベントがある。懐かしい日野の街並みと風情と、イベントに合わせて自宅を解放されて積極的に参加されている街の人の温かな人情を楽しみめる。今年は、2月14日(日)から3月13日(日)まで開催され、特に3月3日の前後の土日がメインとなっている。 守山(11:40)−近江日野商人館 駐車場(12:30〜13:15、見学と近場で昼食)−町屋おひなさまめぐり(13:15〜15:10、日野まちかど感応館、馬見岡綿向神社、近江日野商人ふるさと館ほか)−近江日野商人館 駐車場(15:20)−守山自宅(16:00) 行動時間:2時間50分 パソコン教室が11:30に終了した。その後、かねてから行こうと思っていた日野町のひな祭りに行くことにした。まずは、近江日野商人館に立ち寄った。入館料300円、旧山中正吉邸(近江日野商人ふるさと館)が100円に割引になる補助券がつく。ウイークデイとはいえ、3月3日桃の節句、お出かけの人は多い。中〜老年夫婦、中年女性のグループ等、館内は賑わっている。江戸時代からのおひなさんや和紙人形が300点、圧倒される。江戸に出かけたあるいは出店した日野商人の心意気が感ぜられる家訓や商いの戒め、古い書き物等の展示も充実している。ここで、日野ひなまつり紀行と書いたピンクの案内とスタンプラリーの参加証を手に入れ、ここで『な』を押した後、さじき窓から見られるおひなさんの見物に出かける。天気は好天、4月上旬の陽気で最高の日和となった。まずはスタンプラリーの『ま』を求め、清水町へ。座敷とおぼしき部屋に立派なひなだんが構えている。写真もそこそことって、次はバス通りに出て、大窪町に向かう。車も人も賑やかである。店先に置いてあるスタンプを見つけ、『ひ』を押す。ここは、『ギンザ商店街』である。時代がしのばれる。日野まちかど感応館は通りを東に向かう。勿論、おひなさまはあちらこちらで見られる。玄関先には竹でできたヒナ飾りがある。艶やかな飾りも彩を添えている。まちかど感応館でおひなさん(男女)の画を押す。感応館にはお土産と、案内、飲食、ひな壇が飾ってある。ここから、村井町辺りは桟敷窓があって、その窓から立派なおひなさんを眺めることができる。近江日野商人ふるさと館で『つ』、さらに先の馬見岡綿向神社で最後の『り』を押して完結する。この馬見岡綿向神社は立派な神社で、綿向山の山頂に奥乃宮がある。詳細は下の紹介を参照してほしい。鳥居を出て、左手に行くと、田畑越しに綿向山が眺められる。先日の雪で結構白くなっている。元来た道を戻り、まちかど感応館でスタンプラリーの届出を済ませ、メモ帳をもらって今回のひなまつり紀行が完了した。
日野ひなまつり紀行のポスター 紹介 @童謡 『あの子はたあれ』 あの子はたあれは、作詞細川雄太郎(1914年11月27日 - 1999年2月21日)、作曲海沼實(1909年1月31日 - 1971年6月13日)により1939年(昭和14年)に作られ、レコードはキングレコードより昭和16年に発表された童謡。スキップ調の可愛い軽快な調子の曲である。作詞者細川雄太郎が1939年(昭和14年)加藤省吾(「みかんの花咲く丘」作詞者)編集発行の同人誌『童謡と唱歌』に発表した『泣く子はだあれ』が作曲者海沼實の目に留まり、レコード化することとなった。時節柄”泣く子”はまずかろうと現在の曲名に改題され、同時に詞の内容も明るくリズミカルなメロディーに合うよう、3番4番を中心に改作された。当時は著作権意識が低く、作曲家、レコードディレクター、作詞家当人に加えて当局の検閲などで、多くの童謡が改作された。細川雄太郎は24歳の頃、群馬県藪塚本町の味噌・醤油会社にいた時、故郷滋賀県日野町の幼く楽しかった頃を思い出して「泣く子はだあれ」の詩作をした。歌碑は、細川雄太郎の故郷滋賀県蒲生郡日野町の国道沿い、細川雄太郎が勤務した群馬県新田郡薮塚本町(現太田市薮塚本町)のなつめ公園内に設置されている。 A馬見岡綿向神社 神武天皇の御代、近江日野の東方に気高く聳える「綿向山」に出雲国開拓の祖神を迎え祀り、欽明天皇6年(545)その頂上に祠を建てたのが始まりとされている。 その後、平安時代の初期延暦15年(796)に里宮として現在の地に遷し祀られたという。以来、延喜式神名帳にもその名が見え、蒲生上郡の総社、日野の大宮として、何時の時代も当地の産土神として人々の信仰の中心となってきた。殊に鎌倉時代から安土桃山時代にかけて、この地の領主であった蒲生氏一族は氏神として当社を尊び庇護し、更に江戸時代に全国に名をはせた近江商人の中の日野商人達の財力に支えられ、出世開運の神として崇敬が集められた。明治9年郷社、同42年県社に列せられ、そして今の世も氏子人等の心の拠り処と崇め親しまれている。 その始めを嘉応2年(1170年)とする春季例大祭(5月2日 - 4日)は日野祭と称し、3人の神稚児や3社の神輿、16基の曳山車を中心に、古式ゆかしく絢爛豪華に繰り広げられる祭礼は県下にも有名で、県の無形民俗文化財に指定されている。 なお、綿向山山頂(標高1110m)に祀る奥之宮(大嵩神社)は古来より 20年毎に社殿を建て替える式年遷宮の祭事が、今も絶えることなく続けられている。 B近江商人 近江商人(おうみしょうにん、おうみあきんど)または江州商人(ごうしゅうしょうにん)、江商(ごうしょう)は、主に鎌倉時代から昭和時代(特に戦前期)にかけて活動した近江国・滋賀県出身の商人。大坂商人・伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つである。現在でも俗に、滋賀県出身の企業家を近江商人と呼ぶことがある。通常、近江国外に進出して活動した商人のことを近江商人と言い、活動地域が近江国内に限定される商人は「地商い」と呼ばれて区別された。愛知郡(愛知川・枝村)、蒲生郡(八幡・日野)、神崎郡(五箇荘・能登川)などの出身者が多数。なかでも得珍保(延暦寺領荘園)を拠点とした保内商人の活動が近江商人の前駆となっている。初期の頃は京都・美濃国・伊勢国・若狭国などの近隣地域を中心に行商を行っていたが、徐々に活動地域や事業を日本全国に拡大させ、中には朱印船貿易を行う者も現れた。鎖国成立後は、京都・大坂・江戸の三都へ進出して大名貸や醸造業を営む者や、蝦夷地(現在の北海道)で場所請負人となる者もあった。幕末から明治維新にかけての混乱で没落する商人もあったが、西川産業のように社会の近代化に適応して存続・発展したものも少なくない。今日の大企業の中にも近江商人の系譜を引くものは多い。その商才を江戸っ子から妬まれ、伊勢商人とともに「近江泥棒伊勢乞食」と蔑まれたが、実際の近江商人は神仏への信仰が篤く、規律道徳や陰徳善事を重んずる者が多かった。様々な規律道徳や行動哲学が生み出され、各商家ごとに家訓として代々伝えられた。成功した近江商人が私財を神社仏閣に寄進したり、地域の公共事業に投資したりした逸話も数多く残されている。当時世界最高水準の複式簿記の考案(中井源左衛門・日野商人)や、契約ホテルのはしりとも言える「大当番仲間」制度の創設(日野商人)、現在のチェーン店の考えに近い出店・枝店の積極的な開設など、近江商人の商法は徹底した合理化による流通革命だったと評価されている。 (以上、いずれもウィキペディア(Wikipedia)より) 行動マップ (国土地理院の地図を引用) 2016年花・鳥・その他に戻る、 作成日: 2016年3月3日 |