揺れる湖には、早春の陽射しを受けて幾重もの花が底に淡い影を落としていた。
耳の奥では野鳥の長閑な囀りが、幻聴のように響いていて。
凛と澄んだ大気に雑じる甘い匂いが、微かに鼻先を擽った。

三日寒い日が続けば、四日暖かい日が続くように。
草摩の小山は少しずつ貌を変え、薄紅色の帯を纏い始めていた。
緩緩と明るみの領域を広げてゆく絵画のような光景に瞳を細める。
色のない朝が続いたから、ほんの少しだけ。
乾いた日常から抜け出して、彼と非日常を味わってみたかったのかもしれない。

ほうと白い息を吐くと、僕は緩緩とはとりに視線を合わせた。
その澄明な瞳に吸い寄せられるかのように、ふらりと歩を進める。
刹那、覆い被さるように肩を抱かれ、心臓が跳ねた。
少し肌蹴た胸許から白皙の肌が覗く。
軽口を叩いて笑う余裕すらない。
頸筋に掛かる熱い息に、ぞくりと肌が粟立って。

空気の流れが、変わった。

彼の唇から伝わる体温は僕の理性を容易く縺れさせた。
巧みな口吻けはやがて深いものへと変化し、はとりの息も上がっていく。
汗ばんだ興奮を覚えながら上眼遣いに窺うと、我を忘れた男の顔があって。
深い充塞感に包まれた僕は、熱った舌を貪欲に絡めた。
乱れて漏れる息はどこか甘美な忍び音を含んでいる。

やがて短い睦み事を終えた僕は未だ熱い唇から、切ない吐息をひとつ漏らした。
温かい。でも何か物足りない。淋しい。
鬱屈した感情が冷え冷えした蔭の中に懶く沈んでゆく。
息を吐くことさえ許さなかった在りし日のはとりが浮かんで、消えた。
汗を散らして互いに貪り合った情事は、遠い記憶になってしまった。
蹂躙者の強引さに溶けゆく我が身を懐かしく思う。

「やだぁ。はーさんってばもう終わり?歳?歳なの?
昔はあんなに激しかったのにねぇ」

肩を震わせ、くつくつと笑ってみせると。
僕は唇が離れる余韻を追うように、名残惜し気な視線を向けた。
何時から諦めてしまうようになったのだろう。
流れ出た記憶に蓋をするかのように首を傾げる。

「あ、何?若しかして昔の自分に嫉妬してる?」

「吐かせ。最初に誘ったのはお前だろう?
それに俺は……苦労して手に入れたものを、今更手放す気などない」

「はとりは――狡いね」

「……お前ほどじゃない」

白けた面持で返され、返答に窮する。胸の奥で何かが疼いた。

「そういえば聞いてよ、はーさん。以前、宴会で集まった時にねぇ。
どうも僕の過去の悪魔的所業が全部バレちゃったみたいで……
志岐ってば『父さんほど狡猾な人間はいない』なんて云うんだよ。
親に向かって非道いと思わない?全く、誰に似たんだか」

「物腰はお前にそっくりだろう」

「はは、確かに。でも時々ね。怖くなるんだ。
あの子の育て方を、何処かで間違えたんじゃないかって」

多分僕は――余りにも早くから飢え、苦しみ過ぎたのだ。
己自身さえ幼少期に体験したことのないものを。
如何してあの子に体験させてやることができるだろうか。
愛し方が解らない。冷めた愛しか与えてやれない。
致命的とも呼べる父性の欠如感。
だから、ちりちりと渦を巻く焦燥を散らすように――

幾度、お前は弱いと。叱咤しただろう。
幾度、縋る小さな手を。振り払っただろう。
次期当主となるあの子には、誰よりも強く在って欲しかったから。

結果的に自分が純真極まりないあの子を追い詰めたのだと。
唇が震え、途方もない悔恨と贖罪が交差した。

「……紫呉」

諭すような声。
その労るような眼差しに、何故だか無性に泣きたくなった。

「誰だって――人は、過ちを犯す。完璧な人間など何処にもいない」

「はーさんは何時だって完璧じゃない」

「茶化すな。俺だって失敗ばかりだ。昔も、今も。
人は未熟で、未完成な生き物だ」

だがな、と続けた彼は、不意に視線を春の白く霞んだ空へと滑らせた。
何処までも澄んだ父親の顔だった。

「間違えたなら、戻ればいい。失敗したなら、やり直せばいい。
行き詰ったなら、頼ればいい。迷ってもいいんだ紫呉」

真剣な光を帯びた双眸に、必死だった心の裡を見透かされたような気がした。
過去と云う名の豊穣な土壌から去ることは、未来を耕すことと同じくらい難しい。

「躓いても転んでも立ち上げれるよう、手を差し伸べてやること。
それが俺たち親の務めだろう……?」

なんと傲慢な、それでいて素直な言葉であろう。
彼にだって容易く壊れそうな危うさがあるくせに。
一度だって、僕の知る限り。
はとりの紳士のような挙措正しさは、微塵も崩れたことがなかった。
自信に満ちた確固たる姿に、自然と見惚れる。

「利己的でも狡猾でも。お前はお前の――信念を貫けばいい。
喩えこの先お前がどの道へ進もうと、俺はお前を見限ったりしない」

強い瞳の奥深くで輝く、揺るぎない信念。
自分はまだ愛されているのだと。自惚れても良いのだろうか。
決して共謀関係を結んだわけではない。
それでも彼の弱さではない優しさが、如何にも嬉しくて。
はとり。と、呟いた声が碧く深い水面に吸い込まれた。

「僕はそうやって何時も底なしの闇から――君に、救われてきたんだ」

「違う。救われたのは、俺だ。俺はお前から……
あまりに多くのものを与えてもらった」

激しさを増す温い春の風が、僕の髪を乱して遊ぶ。
すっかり視界を遮った前髪を、そろりと長い指で梳かれて。
菫青石の瞳が真っ向から僕を捉えた。

「俺は倖せになったよ。ありがとう」

吐く息だけで漏れた柔らかな声音に、世界が滲む。

その言葉が聞きたかったのだと。
本当はもうずっと、その言葉を聞くのを待っていたのだと。

瞬間、激しい温度ではないが躰を解すような温かいものが湧き上がってきて。
僕は今にも崩れそうな淡い微笑を彼へと向けた。

「ほんと幾つになっても君には敵わないよ。はとり」

漸く吐き出した声が、湿った。
生きているからこそ。今、此処で息をしているからこそ。
辛いこともある。哀しいこともある。
きっと僕は何年経っても。何十億光年経ったとしても。
君に恋をするのだろう。
ふと見上げた視線の先では、若い芽が色付き始めていて。
盛りの姿を誇示する大木が力強く枝を広げていた。
陽気さを装いながら、そうと手を伸ばす。

「さあ、帰ろうか」

僕たちの家に、と。
散る間際の花のように力なく開くその男の指先に、己の指を絡ませる。
ぬくい。今度はもう、淋しくなかった。
こんな僕を愛してくれてありがとう、と。
募る衝動のまま、想い人の腕を引く。

遥かなる時を超えて枝垂れる花は、何処までも艶やかで美しかった。
新緑に射す多くの希望と命に溢れた眩い光。そこに闇はない。
透けて見える過去と志岐の俤が幻のように淡く、とろとろと陽光に溶けた。
ざあっ、と逆巻く風に舞う花片が天も地も。
視界全てを覆う程に激しくなり――
神が無数の花を見守っている。そんな心持がした。