〜邂逅〜 「エシャジョ−リ、エシャジョ−リ」 何処からとなく聞こえてきた微かな声は、何処からとなく吹いてきた旋風と共に、 消えていった。 会者定離、出逢った者は、必ず別れる―――― そう思わなければ生きていくことのできない憐れな少女たちの声なき声。 そしてそれは、道を歩いていたはとりの足を止めるには十分であった。 瞑っていた目を開け、空を仰ぐ。 世界がこの空のように、いつも澄み切っているとは限らない。 遠方の地で、今日もまた、内乱が起こっているのだろうか。 はとりの瞼の裏に、大勢の農民、女、子供が傷つきながら倒れていく光景が 一瞬浮かんで、消えた。 酷く、心地が悪い。 昨年起きた飢饉の影響だろう。 どの道、内乱がこうも頻繁に発生するようでは、この国はもう長く持たない――― そんなことを思いながら、はとりは先刻、声が聞こえた建物を、見上げた。 木造二階立ての一般住宅のような建物が並ぶここは―――表の世界などではない。 玄関先に並べてある植木鉢などは民家のそれと大差は無いが、しかし、その玄関の 中をチラリ、と覗けばそこはもう別世界だ。 年端もいかない寝巻き姿の少女たちが、行儀良く並んで見せ窓に立っている。 着物の帯などは結ばれてはおらず、それは巻帯に近かった。 十五・六のまだ若い娘たちが、着物姿で酸漿を口に含んで歩いているのを見ると、 思わず溜め息が零れる。 酸漿には堕胎作用がある――それを知っての上での風習であろう。 そんなものは妊娠の予防にはなりはしないのに・・・単なる気休め。 それでも彼女たちは、せずにはいられないのであろうか。 花魁になる―――そんな将来を望む者は、恐らく一握りの者だけで、大半の者は 親に売られ、連行され、監禁され、売春を強要される。 ここでは、売春業は公認で、彼女たちが助けを求めても誰も振り向きはしないだろう。 こんなご時世だから、警察などもあてにはできない。 道行く人も、時折、冷ややかな好奇の目で彼女たちを眺めるだけで素通りして行く。 そして自分も恐らく、その中の一人に過ぎない。 ・・・・・・はずだった。 どうして、今日に限って立ち止まってしまったかは解らない。 今日は急ぎの用事で、出向かねばいけない場所があったのに。 ここへ来たらもうそんなこと、どうでも良くなってしまった。 風が、自分の髪を攫っていく。見えない風を目線だけで追いかけると・・・・・・ 目が合った。三十センチ程しか開いていない格子戸の隙間から、黒髪の女――― 否、男が気だるげな瞳をこちらへ向けていた。 妖艶な笑みを浮かべて。 肩に提げていた鞄がずり落ちたことに気が付かないほど、はとりの目は彼に釘付けに なっていた。 狂っているのであろうか。 フ、とそんな思いが頭の中をよぎる。 遠くの方から、三味線と鈴の音が聞こえてきた。 売られて強姦、輪姦されて絶望した少女たちの中には自らの命を絶つ者もいれば、 なされた行為の意味を理解することができずに発狂する者もいる。 伏羽琉遊郭―――と、そう地味な暖簾には書かれてあった。 だが、建物の造りは決して他の店とは違い粗野な造りではない。 ここら一角、遊郭という同じ空間の中で、この店の敷地は驚くほど広かった。 中心、なのかもしれない。木造でありながら、豪華さが感じられる。 庭も相当手入れが行き届いていて、日の光を反射して光る池は気品を醸し出していた。池にかかっている赤い橋がやけに印象的だった。部屋数も相当あるようだ。 六畳くらいの外から見える部屋は日当たりの良い場所でもあるようだった。 次にはとりが顔を上げた時、もうそこに人の姿はなかった。 彼は、泣いていたのかもしれない。そんな根拠のないことを思う。 だが、笑っていた彼の目に、透明な光があったのを、はとりは見逃さなかった。 急に、不安になる。 姿が見えなくなったのは、取り立てて騒ぐことの程でもない。 ただ、部屋に入っただけだろう。 寧ろおかしいのは自分の方だ。何故、それほどまで彼に拘る必要がある。 自分は遊郭などに興味は持っていない。 サワリ、と風が吹く。 風の中に、幻影でも見たのであろうか。だとしたら――― 狂っているのは、自分の方だ。 落ちた鞄を、現実を取り戻すかのように、拾い上げる。 今朝方、長屋の方で火事があった。 そんな報せを受けたことを、ゆっくりと思い出す。 火はもう消えたのであろうか。 乾いた風がはとりの頬を撫でるように通り過ぎていく。 その風に後押しされるように、はとりはまた歩き出した。 * 静寂が訪れる中、闇夜に紛れるように提灯を下げて、歩く。 雲居に浮かぶ三日月は、まだその光を放つには十分でなかった。 目指す処は昼間見た伏羽琉遊郭――・・・・・・ただ一つ。 正直、こんな自分がそのような場所へ赴く日が来ようとは思ってもみなかった。 そんな自分を嘲笑するかのように提灯の炎がユラユラと揺れ動く。 自分でも全く、馬鹿げたことをしていると思う。 彼を見たのは、ほんの一瞬。名前も解らない。 現実と非現実の境界で見た曖昧な映像―――それだけが、唯一の頼りだった。 艶っぽい赤みのかかった照明が、ひどく鬱陶しかった。 敷き詰められた赤い絨毯を眺めながら、何だか足を踏み入れてはいけない場所に 来てしまったようで―――はとりはここへ来たことを、既に後悔し始めていた。 二階に昇る階段にも赤い羅紗が敷かれているが、それが余計にはとりを苛立たせる 原因でもあった。つくづく、招かれざる客だと思う。 玄関先で、簡単な手続きを済ませると、和服姿の初老の女将が出てきた。 余所余所しい挨拶を互いに交わし、用件を手短に伝える。 彼―――(不本意ではあるが、名前が解らない以上、そう呼ぶしかない)には、 どうやら先刻まで客がいたらしい。 遊興費の取り決めも済み、てっきり引手茶屋へと通されるとばかり思っていたら、 素上りで良いと云われ、やや拍子抜けした気分になった。 案内されながら、さらに奥の方へと進む。 どうやら昼間、自分が籬越しに見た場所は離れになっていたらしい。 シン―――と、静まり返っている廓を改めて見渡す。 外観こそ派手な造りではなかったが、内部は思った以上に華美であり、 風流な洒落た造りになっていった。 これが夜でなければ、また雰囲気も違うのであろうか――― そう考えていると、どうやら何時の間にか目的地まで辿り着いていたらしい。 個室を充てがわれているところから察するに、彼の格式は思った以上に高いようだ。 「―――失礼・・・・・・」 ス―――と障子を開け、座敷へと足を踏み入れる。 箱を被せたように、中は薄暗かった。 寝台には天蓋がつけられ、寝具も上質の絹のものが用意されていた。 螺鈿の施された漆器には、赤い一輪の花が生けられている。 香を焚いているのであろうか。甘い香りが鼻をついた。 云うまでも無く―――最上級の部屋である。 彼が顔を上げたのが気配で判った。 「―――誰・・・?」 間違いない。 昼間見た人物は、確かに存在した。 自分が柄にも無く緊張しているのが判る。 問われても、喉が引き攣ったように声が出ない。 気怠げにこちらを見上げた彼の瞳に、光はなかった。 |