会者定離



                     
〜奈落〜









伏羽琉遊郭の楼主―――慊人は、まさに「亡八」であった。
亡八とは中国古典で「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八つの人倫を失った人面獣心の輩という意味である。


慊人は自分たちに過酷な売春を強いる一方で、彼自身は安逸な暮らしを送っていた。
自分を含め、楼主・慊人に人間の情を求める遊女はいない。
彼はまさに冷血漢にして強欲であった。






自分の友人であった佳菜は、一昨年の春、彼に折檻されて苦悶の挙句、自分の目の前で
敢え無く息を引き取った。

切っ掛けは些細なことだった。
病弱であった佳菜は、相手をする遊客が少なく、あまり稼ぎが良いとはいえなかった。
そのせいもあって度々、妾に折檻されていたようであったが、妾も人間だ。
気の毒だと思ったのだろう。折檻をしたフリをして、佳菜を守っていたのだ。
慊人は薄々、そのことに感付いていたらしい。






「手ぬるい―――

そう云って、止める妾を振り払い、慊人は佳菜を打ちのめして・・・・・・殺した。
「私刑」という名目で。
一緒にいた妾も、反逆行為という建て前から、容赦なく叩きのめされ、そして殺された。





自分は・・・・・・何もできなかった。
一部始終、それを見ていながら、恐怖のあまり、動くことすらできなかったのだ。
震える手で差し出された佳菜の両手を見た時、その残忍さに涙が零れた。











「君もこうなりたくなかったら・・・・・・真面目に働くんだ」









薄ら笑いを浮かべながら自分の背後へやって来た慊人に、耳元でそう囁かれた時、
思わず、吐き気がした。
恐怖と怒りで体中が震撼した。

解ったのは、もう、佳菜の澄んだ笑顔が永遠に見れなくなってしまったということ。
差し出された彼女の両手を握り締めた時、彼女の呟いた言葉が、
今も胸に突き刺ささっている。












 「        」











彼女の最期の言葉は、慊人への恨み言ではなかった。
自分に僅かな望みを託して、そして眠るように彼女は旅立った。














                         *














「紫呉太夫。楼主様がお呼びで御座います―――

何時の間にか、転た寝をしていたのだろうか。
障子越しの女中の声で、紫呉は瞑っていた目をスゥ――と開ける。
寝覚めは、最悪だった。




――解った。今、行くよ・・・・・・」

霞がかったような頭を何とかはっきりさせようと、紫呉は頭を振って答えた。
そのまま、簡単に身支度を整え、廊下へ出る。
内所は確か地下の突き当たりにあったはずだ。
まだ日は出ておらず、辺りは薄暗い。
ほんの一瞬の、空白の時間帯。遊女たちの、束の間の休息。

シン―――と静まり返った廊下が軋む。
眠っている者を起こさぬようにと気遣いながら、紫呉は廊下を一歩、また一歩と
足音を立てないように進んで行った。









――――






「何処へいくつもり―――・・・・・・?」





心臓が、跳ねる。
聞き覚えのある声が、背後から聞こえた。
忘れようと思っても、忘れられない、あの独特で異様な声。

慌てて振り返ると、そこには予想通り、慊人が立っていた。




「・・・お呼びでしょうか?慊人さん―――
最も憎むべき相手と対峙しながら、紫呉は出来だけ平常心を装いつつ、答える。

慊人は何時も通り、縮緬の衣を着て、豪華な羽織を纏っていた。
とても学識があるようには見えない出で立ちである。
自分たちが死に物狂いで働いている間、彼が芝居見物や物見遊山にうつつを抜かして
いるという噂は、強ち嘘ではないようだ。









「どうして僕が君を呼んだか―――察しの良い君なら、もう解るよね・・・・・・?」
顔は笑っているが、その瞳は笑っていない。
どうやら、慊人は相当、怒っているようだった。

「いいえ。残念ながら・・・・・・」
肩を竦めて、答える。
恍けても無駄であることくらい解っていた。
だが、今回ばかりは慊人の云い成りになるわけにはいかない。



「草摩はとり―――彼は、医者だね。最近、君の客は彼だけだ・・・・・・」
相変わらず、歯切れの悪い口調だ。
本当に云いたいことを、最後まで切り札としてとっておく楼主の悪癖は、初めて会った時から
何も変わっていない。

「お言葉ですが、慊人さん。僕には、客を振る権利があるんですよ」


瞬間、彼の顔色が変わった。
同時に、態度も豹変する。
憤怒の形相で睨み付け、声を張り上げて、彼が叫んだのが解った。


「楼主である僕に、口答えするなっ――――!!!」

あっという間だった。
ドン、と突き飛ばされて、近くの部屋に無理やり閉じ込められる。
一瞬、何が起こったのか解らなかった。
薄暗い燈火に照らし出され、漸く自分の位置を把握する。
鉄格子を嵌めた明かり窓、石畳の床に打ち込まれた足かせの鎖・・・・・・
それを見て紫呉は愕然とした。





ここは――――
意識が、あの悪夢が、紫呉を支配する。
ここは、あの忌まわしい・・・・・・

















「思い出したようだね。ここは、一昨年に君の友人が死んだ拷問蔵だよ」

ハッ、と顔を上げると、そこには慊人が立っていた。思わず、後退する。
しかし、慊人は薄ら笑いを浮かべながら、ジリジリと近寄ってきた。



逃げなければ――――

本能が危険だと、紫呉に告げた。
だが、恐怖のあまり、動くことができない。
嫌な汗が、背中を伝うのが解った。
呼吸が苦しくなる。視界が歪んだ。










「残念だよ。君はもっと頭の良い子だと思っていたのに―――

慊人の行動は素早かった。
まず、口に手拭を噛ませて猿轡をさせられ、言葉を完全に封じ込められた。
さらに抵抗できない躰を甚振るかのように、両手両足を縄で四つ手に縛り上げられる。
これで、もう身動きも取れなくなった。






「草摩はとりと、別れるんだ―――
これが最後の警告だと云うように、慊人が近寄ってくる。
首を横に振ると、煙管で打ち据えられた。
同時に着物も引き裂かれる。

慊人の手が、その裂かれた着物の中へ、また下へと―――さらに伸びた。
――――っ!!」
秘所への苛烈な責めに、紫呉は思わず悲鳴を上げそうになる。


「・・・可愛くないね。悲鳴も出さないなんて・・・・・・そんなに、あの医者が良かったの?」
慊人の声が、遠くの方で聞こえた。
無理やり押し広げられた蕾が、疼く。
蕾に差し込まれていた指が、グイと奥を探り、不規則に動いた。


一本、また一本と、増やされた指は、何時しか針に変わっていった。
あらゆる抵抗手段も奪われ、成す術も無く、犯されるだけの自分―――
内壁がバラバラに嬲られる。それでも紫呉は耐えた。
悲鳴は上げない。絶対に屈しない。
責められた際に太股に垂れた血が、石畳の上に飛び散った。







慊人は、そのやり方を、手ぬるいと感じたのだろう。
遣手婆を呼ぶと、すぐさま縄の用意をさせた。
自分の躰が、梁へと吊り上げられるのが解る。
肢体を四つ手に縛られ、躰を真二つに折り曲げる姿となる上、
宙吊りにされたのでは堪らない。
手足の関節が抜けるのではないかとさえ、思った。





「お前は、このまま下司な男に躰を預けていれば良かったんだ――――!!
外の世界を知らないままに果てるまで、汚い男共の性欲処理の為だけに存在するのが、
お前たちの役目なのだから――――!!
誰の御陰で太夫になれたと思っているんだ――――!!!」




あぁ、慊人が何かを叫んでいる。





それでも、紫呉は首を横に振り続けた。
その度に、慊人の青竹が振り下ろされ、叩きつけられた肌から、血飛沫が飛んだ。
すでに付けられた傷からは、細い糸のように赤い血が流れている。
叩かれる度、頼りない縄で吊るされた躰が回り、大きく揺れた。
括られた手首が、腕が、悲鳴を上げる。





――――惨めだね。
そう云って、嘲笑する慊人の姿が、一瞬、瞼の裏に映って、消えた。





傷だらけの紫呉の薄い皮膚は、やがて引き攣れて、その周りの傷から血が滲んだ。
遣手婆は、頷こうとしない紫呉の傷口へ、猶も割れ竹の柄を押しつけて、
傷を開くようにそれを捻り込んだ。

上半身が、真っ赤に染まる――――

紫呉がその痛みに気を失いそうになる度に、塩を混ぜた水が、勢いよく頭からかけられた。
水がしみ込むと縄がしまって肌に食い込み、余計に痛い。
無数に出来た傷に染み込む塩水が、さらに紫呉を苦しめた。
脳裏が、真っ白になる。
慊人の折檻は、凄絶さを極めた。













――――顔だけは、傷つけるんじゃないよ・・・・・・
誰の言葉であろう。もう、それすら解らなくなりそうだった。
辛うじて聞き取る。





――――このまま死んでしまうのではないか・・・・・・
遣手婆の声が微かに耳に届いた。





――――まだ利用価値のある商品を、殺しはしないよ・・・・・
答えたのは、慊人だろう。



内臓が痛む。
痛い。苦しい。誰か、誰か・・・・・・









                      タスケテ・・・・・・










いっそこのまま、死んでしまえたら――――
そう思う度に、はとりの顔が頭に浮かんで、消えた。






どうか、もう一度だけ、彼に逢わせて欲しい――――







遠のいてくる意識の中で、紫呉はただひたすら祈った。








 「      」



声が聞こえる。
あぁ、これは幻聴だ。
あの時、絶命する寸前、震える彼女の両手を握り締めた時、彼女が最期に云った言葉。








「どうか・・・紫呉は倖せになって――――

佳菜の声が聞こえたような気がした。







「・・・・・・けて・・・・・・助けて―――は・・・ぁ・・さ・・・・・・んっ――――

白濁した世界へと堕とされていく中で、紫呉は、そのまま意識を手放した。