会者定離



                     
別情






継飛脚が幕府からの書状を持ってきた時、もう空は黄昏色の衣を纏い始めていた。
縁側に腰掛けて煙管を吹かしていたはとりは、眉を曇らせながらも、
それを受け取り開封する。
ざっと目を通して、溜め息を吐いた。
何時かこんな日が来ると解ってはいたが、それでも、はとりは、自分に白羽の矢が
立ってしまったことを、恨めしく思わずにはいられなかった。



度重なる内乱で、医者が足りないのだろう。
内容は実に簡潔で―――至急、内乱の地へ赴け、といったようなことが、
大層丁寧に、つらつらと書かれてあった。
無機質な文字の羅列。
蟀谷こめかみに手を当てて、嘆息する。



破り捨ててしまおうか――――
そんな思いが一瞬、頭の中に浮かんだ。
手に僅かばかりの力を込めれば、こんなものは瞬時に破ることができる。


―――


拒否権など甚だ無いに等しい。
何時だって、上からの命令は絶対だ。
その命令に背けば、祖先の功績を汚すばかりでなく、
後世に渡っても、誹りを受けることになるであろう。
だが、そんな些細なことは正直、どうでも良かった。
自分の地位や名誉、そんなものより大切なものは、他にある。



飢饉や地震、火事が相次いで起こる中、政治的な混乱は、民衆の不安に拍車を掛けた。
百姓の負担は増えるばかりで、物価は急激に騰がり、人々は世直しを求め―――
遂に動き始めた。
歴史は確実に変わりつつある。
抗うことはできても、避けることはできない。
そして今、まさに自分は、その渦中に、身を投じようとしているのだ。



開けた障子の桟に凭れ背を預けると、ずるずると体が沈んだ。
そのまま座り込んで額に手をやり、空を仰ぐ。
不意に吹いた風は、手から書状を奪って通り過ぎた。
落ちたそれに目線だけを遣ると――――



三年という公務を終えた暁に貰えるはずの報酬は、紫呉の身請けをし、
その後、彼と二人で細やかな生活を過ごすのに、十分すぎる程の額だった。










                         *










市井から夕餉の煙が立ち始める頃。
荷物の整理をし、成すべきことを終えると、はとりは夜の街へと繰り出した。
夜になっても、人通りの絶えぬ街並み。
だが、その賑やかさは表面だけで、そこには昏い不安が渦巻いていた。
人々は、変わらない生活を繰り返しつつ、目に見えないほどのゆっくりとした速さで
少しずつ、少しずつ、時代に合わせていく。
やがて、それに慣れる時がやって来る。
その時、自分は、この国の処方箋を書くことができるだろうか――――
そんなことを思っていると、漸く目的地が見えてきた。



丁度、大通りの真ん中辺りにポツン、とある一軒の老舗。
店先には、人々の目を奪うほどの、華やかな美しい簪が並んでいる。
はとりは、古くから伝統を守り続けてきたこの店の、常連客だった。
その店の主でもある馴染みの老婆に、軽く会釈をすると、
はとりは予め決めていたかのように、鼈甲べっこう製の吉祥簪を二本手に取る。


――――


「・・・良い人でも、見つかったのかい・・・・・・?」


老婆が、顔を皺くちゃにして笑った。
婚礼には花簪として、鶴亀や梅花をあしらった鼈甲製や金銀細工の、
豪華な吉祥簪が用いられる。
恐らく、そのことを云っているのだろう。


「済まないが、これに・・・・・・」

だが、今のはとりには、それに答えている余裕が無かった。
神妙な面持ちで、或る希望を告げる。
一瞬、首を傾げた老婆であったが、何かに気付いたのか優しく微笑むと、
二つ返事で快く、それを引き受けてくれた。








                         *







絶え間なく響いてくる、艶を帯びた客引きの声。
人は皆、この独自の異空間に酔いしれ、一夜の夢を見に訪れる。

白く浮かんだ大きな月の下、独特の香の匂いを漂わせた、閉鎖された空間で、
紫呉は、はとりを出迎えた。



「いらっしゃい・・・・・・はーさ・・――!?」



最後の言葉を云い終えることもなく、紫呉は、障子を開けた瞬間、
はとりに強く抱き締められた。
紫呉の内部に、驚きと、戸惑いの感情が広がる。
物も云わずに、突然自分を抱き締めたはとりを、不思議に思っていると、
彼の腕が微かに震えているのに、気が付いた。


何かあったのだろうか。
何時もとは違う、不可解な行動。



どうしたの?―――そう問いかけようとして開きかけた口は、
そのまま、はとりの唇で塞がれた。
―――っ!?」
呆然とすることしかできない。
今までに、強要されたことなんて一度もなかったから。
彼らしくないその行為は、一層、紫呉の不安を増長させた。
言葉を紡ぐことなく閉ざされた唇が、漸く解放されたと思った瞬間――――



「今日、国から――――内乱の地へ行けという書状が届いた」



はとりの口から衝撃的な言葉が飛び出した。
自分の躰が硬直したのが解る。
今、彼は何と云ったのだろう・・・?


抱き締められた腕を自ら解いて、紫呉は、はとりに背を向けた。
その背中に、追い討ちをかけるように、はとりの言葉が突き刺さる。


「・・・・・・此処を、暫らく離れる――――


頭の中が、真っ白になった。
耳を塞いでしまいたくなるような言葉。
無意識に空を見上げる。
輝いている月明かりが、滲んだ。


「何時・・・・・何時、出発するの?」
振り返れば、多分、自分は、はとりを引き止めてしまうだろう。
これ以上、彼に迷惑を掛けることはできない。


「明日の朝、だ」
望みもしない別れは、極自然にやって来た。
はとりが国から選ばれたのは、名誉なことで、
だから自分は素直にそれを喜ばなければならないはずなのに。
どうして、哀しいと、虚しいと思ってしまうのだろう。





「そう・・・・・・国からの命令じゃ、仕方ないよね」
震える肺を落ち着かせて、なんとか、声を絞り出す。
涙が溢れないように、唇をギュッ、と噛んだ。
こんな時くらいは、笑顔で見送らなければ。

「気を付けてね。いってらっしゃい――――
振り返って笑うと、はとりが立ち上がった。
行ってしまう。本当に。
自分を置いて、彼が手の届かない所に行ってしまう。
本当は行かないで欲しい。ずっと傍に居て欲しい。
だけど、それは自分の我が儘。



刹那――――



「・・・・・・紫呉――っ!!」
再び、腕を掴まれ、引き寄せられる。
その時、正面から見たはとりの顔が苦しそうに歪んでいるのを見て、
紫呉は言葉を失った。
こんな表情をさせてしまっているのは、多分、自分。


若しも今、彼が―――はとりが自分と同じ気持ちでいてくれるのなら。



紫呉はもっと我が儘を云ってもいい、何時だったか、そう、はとりは云った。
それならば・・・・・・




「・・・抱いて――――・・・・・はーさん」
これが最初で、最後の我が儘。
それでも紫呉は、それに賭けた。
はとりとの出逢いを、単なる思い出だけに終わらせたくない。

最も、彼がこの頼みを受け入れてくれるかどうかは、解らなかった。
自分が折檻に遭って以来、はとりが触れるという行為に対して、
極力敏感に振る舞っていることは紫呉にも十分、解っていたから・・・










「本当に、いいんだな・・・・・・?」
痛いほどの沈黙の後、確認するようなはとりの声が、耳に届く。
何だか顔を上げるのが恥ずかしくなって、小さく頷くと、髪を優しく撫ぜられた。


頼りない置き行灯の火燈が揺れて―――
はとりが手を伸ばすと、火は消えた。
同時に―――曖昧な結界も消え、紫呉の半身が闇に溶ける。
はとりの躰も夜陰と雑じった。




導かれるまま、敷き延べられた絹の寝具の上に、横たえられた。
乾いた紫呉の唇に、はとりの温かい唇が重なる。
二重輪柄の帯の結び目が、緩やかにほどかれていった。
静まり返った部屋に、小さく響く衣擦れの音。
まるで花弁を一枚ずつ開いていくかのように、
唐花文の布地を継いだ着物がハラリ、と落ちた。
襦袢の裾が開けられ、膝を割られて抱えられる。
はとりの手で開かれていく自分の躰が熱くて、苦しくて、
思わず、涙が出そうになってしまった。



はとりが滾る己を、紫呉にあてがった――



瞬間――――



「・・・・・・淫らだね」



そう云って笑う慊人の声が聞こえたような気がして、紫呉は思わず目蓋を閉じた。
小刻みにガタガタ、と震える。
そんな怯えた自分を見て心配したのだろう。
はとりが一旦、引いて、行為を中断しようとしたのが、解った。




―――・・・めないで!!・・・・・・止めないで、はーさん―――
思わず、声を上げる。
思えば、自分から求めたことなんて、これまで一度もなかった。
抱かれるのは、自分の仕事。
いつも、そう割り切っていたし、抱かれる最中も、
抱かれた後も、何も感じたことはなかった。

自分から浅ましいことなどしたくなかったし、そうすれば賤しい身分へと、
心すらも成り下がってしまいそうな気がした。
だから、初めて彼を見た時も、薄汚い男共と同じだと、思わざるを得なかった。
自分を買う彼が、欲望に塗れた男達と全く相容れないはずがない。
自分を買う男は皆、同じでしかないと。



でも――――



大丈夫。
この人は慊人じゃない。
自分を買うお客でもない。
きっと、この人なら――はとりならば、自分の全てを受け入れてくれる。
だから自分も、受け入れたい――――
彼だから、はとりだから―――・・・・・・きっと、受け入れられる。




一瞬、躊躇したかのように見えた行為であったが、
唇にキスを落とされ、再開された。
ゆっくりと躰を開かれ、内で蠢く指が紫呉に悦びを与える。
視界が揺れた。



「・・んっ・・・ふ・・・あっ・・・」
喘ぐように吐いた浅い吐息が、自分の声が、妙に熱を帯びて聞こえた。
その声の何処かに、甘さが含まれていることが、不思議にすら思える。
はとりは自分の躰に少しも力を入れなかった。
負担が掛からないように、肘に力を入れてくれたのだろう。
隙間に出来た、温かく心地良い空間。
守られているのだと、強く感じた。





ねぇ、もっと、その指で触れて。
お願いだから、行かないで。僕の傍にいて。
現実を見せないで。夢を見させて。
顔を見せて。自分だけに笑って。キスして。
一番近くで鼓動を聞かせて。
どうか、離れないで――――




はとりと逢う度に、欲張りになっていく自分。
腰を揺らしていると、足を抱え上げられた。
羞恥心など、とうの昔に捨てているはずなのに、押し当てられた熱に、
思わず頬が紅潮する。




刹那――――



「・・あっ――――

上擦った声が、無意識に零れた。
ゆっくりと、はとりが自分を侵食していく。
紙一重の苦痛と快楽。
言葉に出来ない感情で、胸が一杯になった。
痛みよりも強い想い。
熱くて、柔らかくて、どうしようもないほどの、切ない想い。
感情だけが、高まっていく。



「・・・紫呉」
名前を呼ばれた瞬間、フワリ、とした感覚に包まれた。
はとりと、触れ合った時―――体温を共有した時、
あぁ、生きているのだと、思った。

生きていて、生まれて来て、はとりに逢えて良かったと、心から感謝した。



トクン、とはとりが自分の中で脈打つのを感じる。
温かい。これでもう、独りではなくなった。
ゆっくりと、自分を埋めていく熱が、妙に心地良い。
彼を受け入れた時、奇妙な懐かしさにも似た感じ、
言葉では言い表せないような不思議な感覚が自分の中に流れ込んだ。
何だかもう、ずっと前から、自分は彼を知っていたような、そんな既視感デジャービュ――――





―――まだ陽の暮れぬ時刻、自分は部屋の籬越しから外を眺めていた。
桜の莟を眺めて、感傷的になっていたのかもしれない。
兎に角、此処を出たいと、自嘲しながら、涙を流していたような気がする。
通りには、肩に鞄を下げて早足で歩く男の姿があった。
陽炎が立っている。
全ての世界が止まって見えた。
ふと彼が顔を上げた。
鞄が落ちる。
目が克ち合って・・・・・・


あぁ・・・・・・そうだったのだ・・・・・・
あの時、自分が見たのは、はとりだったのだ――――







                         *








あの時―――はとりは、囲まれた檻の中の紫呉を見初めた時、
複雑な感情で一杯になった。
死んだ魚のように濁った紫呉の瞳に、涙が浮かんでいるのを見た時、
彼を、何とかして助け出してやりたいと、きっと無意識に思ったのだ。
だからこそ、自分は此処へ出向いたのだろう。
偶然ではなく、必然的な出逢い。
自分は、紫呉の特別な存在になりたかった。


「どうして・・・何で、抱かないの?」
紫呉が以前、云った言葉―――

確かに、これまでに、彼を抱く機会なら、何度でもあった。
それでも、自分が紫呉を抱かなかったのは、多分―――
嫌だったのだ。
自分が他の客と同じように扱われてしまうのが、嫌だったのだ。

だから、先刻、紫呉に「抱いて」とせがまれた時、酷く困惑した。
愛しいなどと、一度口にしてしまえば、
もうそれだけで、他の客に紫呉を渡したくないと思ってしまうのは、解っているのに。

自分を狂わせたのは、恐らく三年という気の遠くなるような月日。
紫呉と離れ離れになってしまう、それだけが、もうどうしようもなく、辛かった。
真逆、こんな気持ちで紫呉を抱くことになるとは、思いもしなかった。





「紫呉―――・・・・・・これを」
紫呉が辛いだろうということは解っていながらも、はとりは敢えて、
繋がったままの状態で、彼に、或る物を手渡した。
眩しいほどの月明かりが、室内を照らし出す。


「これ・・・・・・簪―――・・・・・・?」
紫呉が驚いたような表情でそれを受け取ったのを確認してから、
はとりは云った。
「・・・ここに、名前が彫ってある」
指を差して説明する。

自分が先程、老舗で買ったばかりのそれは、月の光を浴びて、美しく反射した。
彫られた名前を見ながら、老婆に感謝する。
紫呉がそれを見て、不思議そうな顔をした。
「・・・これ、はーさんのだよ」

確かに。
今、紫呉が手に持っているのは、自分の名前が彫られた簪。
だが―――
「・・・俺が、持っているのは、お前の名前が彫ってあるものだ。
無事に此処へ帰ってきたら、これを交換するんだ―――・・・・・・」

刹那、紫呉の目が大きく見開かれる。
何か云おうとした彼の唇を己の唇で塞ぎ、言葉を奪うと、
はとりは有らん限りの力で、強く、紫呉を抱き締めた。




「三年だ!!三年経ったら、必ず、此処へ、お前を迎えに戻って来る・・・・・・
そうしたら一緒になろう―――――!!!」




生温かい液体が、紫呉の頬を伝って、はとりの頬に落ちた。
紫呉は涙を必死で堪えていたのだろう。
震える手で、はとりの首に手を回すと、紫呉は約束だからね、と小さく呟いた。
あやすように背中を叩き、約束だ、とはとりが云うと、漸く紫呉は感情を解放した。
嗚咽が、部屋の中に、静かに響いた。






                         *






月明りに蒼白い肌が浮ぶ。
濡れた香りが、二人の躰を包み込んだ。
「動くぞ・・・・・・」
無理をさせるつもりはなかった。
紫呉がこれまでに受けた傷を癒してやりたいと―――そう思った。
慎重に腰を動かしはじめる。



「あ、んっ・・・ふ・・・・・ぁ・・・んっ!」
紫呉の呼吸が乱れ、縋るように細い腕が回された。
閉じられた瞳から、涙が零れる。
唾液で艶やかに光る唇からは、喘ぎ声が零れた。
そんな紫呉を見る度に、いっそこのまま、彼を攫って行ってしまえたら、
どんなに気が楽になるだろうと、そう思わずにはいられなかった。

耳朶を噛むと、紫呉の躰は敏感に反応する。
切なくなって、はとりは誘われるように唇を合わせ、繋がった箇所を揺さぶり続けた。

「・・・んっ、あぁん・・・っ」
自分を見上げる潤んだ黒い瞳。
首筋を流れる艶を帯びた黒髪。
濡れた感触も、その躰も、全てが、愛おしい。
浅く上下する薄い胸を見ながら、はとりは、そこへ己の刻印を焼き付けた。
腰を引き寄せ、さらに奥を貫く。

「あ・・・んん・・・・・・っ」

色づいたしなやかな肌が、軽く仰け反った。
紫呉の指が、縋るものを求めて宙を掻く。
その手を掴んで、名前を呼んでやると、嬉しそうに微笑んだ紫呉の口から、
掠れた声が上がった。
自分でなければ、聞き逃してしまいそうな小さな声。



「このまま一つになって融けちゃえばいいのに。そうしたら、ずっと一緒にいられるのにね」



それが、合図となった。
熱くて、吸い込まれそうな程、気持ちの良い紫呉の躰の中に、
温かい濡れた感触が落ちる。


「んっ、いっ・・・ああぁぁっ―――――!!!」
はとりが己の欲望を、紫呉の中へと吐き出すと同時に、一際高い嬌声を上げて、
紫呉は腕の中で、果てた。















                         *














はとりが目を覚ました時、まだ空は暗かった。
夜空には、零れんばかりの星が、瞬いている。
遠くの方で、行灯が揺れているのが見えた。
大門の前では、駕籠かきが、痺れを切らしながら、自分を待っているのだろうか――――



意識を失って、穏やかな寝息を立てている紫呉を起こさぬように、はとりは立ち上がった。
肌着を身に着け、襦袢に袖を通す。
此処までは、何時も通り、何も変わらない日常。



――――



眠っている紫呉を見て、フと気付く。
躰だけは浄めた方が、紫呉も楽になるだろう―――
そう思い、はとりは寝具ごと、紫呉を引き寄せた。
膝の裏と、脇の下辺りに腕を差し入れ、躰を抱き上げる。
眠っている人間の体重は増すと聞いていたが、紫呉の躰は思った以上に、軽かった。






湯舟の中へ入らせ、蕾に指を入れ、掻き出すように中を綺麗にしてやる。
ドロリ、と自分の放った体液が出てきた。
それを全て流して終えてから、丁寧に、手拭いで躰を拭いた。
紫呉の頭が、自分の鎖骨辺りに預けられる。
ジッ、と白い紫呉の肌を観察し、そこに傷が残っていないことを確認して、
はとりは安堵の溜め息を吐いた。
あの時の折檻の痕が、紫呉の躰に残っていないかが、不安だったのである。



湯文字と長襦袢を着させて、元の位置に寝かせてやると、
紫呉の口から、小さな喘ぎ声が漏れた。
それに苦笑しつつ、はとりは、紋付の羽織の紐を結んで、白足袋を履く。






「い・・・かないで・・・・・・はぁ・・・さん―――・・・」

部屋を出ようと障子に手を伸ばした瞬間、自分の名前が呼ばれたのに驚き、
はとりは慌てて振り返った。

若しかすると、起こしてしまったのだろうか――――



――彼は、眠っていた。
そのことに安心して、溜め息を吐く。
傍まで歩み寄ると、儚げに、それでも倖せそうに、彼が微笑んでいるのが解った。
紫呉の髪をソッと持ち上げ、そこへ触れるか触れないかのキスを贈る。



「愛してる――――・・・・・・」



まだ眠ったままの紫呉の耳元に、そう囁くと、はとりは、そのまま部屋を後にした。











                         *










紫呉が目を覚ました時、そこにはもう、はとりの姿は無かった。
何時もならば、これほど熟睡はしないのだが、
何故か、その日に限ってよく眠ってしまったらしい。
自分の躰が濡れていないことに気付き、そこで紫呉は、
はとりが去る前に自分の後始末をしてくれたのだと悟った。

夢のような一夜を思い出して、それから、はとりが渡してくれた簪に触れる。
大丈夫、と自分に云い聞かせるように、きつくそれを握り締めた。
朝日が、紫呉の頬を包み込むように照らし出す。




大丈夫。はーさんは・・・・・・はとりは、きっと自分を迎えに帰って来る。
だから、今度こそ二人で、倖せになろう・・・・・・?

紫呉の目から、透明な涙が、一筋の軌跡を描いて、落ちた。