会者定離



                     
愁絶








廊下に通じる側の障子が音もなく開いた。
その隙間から、春だと云うのに、身を切り裂くような冷たい空気が流れ込む。
スッ―――と、何も云わずに入ってくる綾女を、紫呉はただ呆然と眺めていた。
何があっても、絶対に動じないと仲間内で囁かれていたあの綾女が――――
ただ静かに、泣いていた。






「とりさんが――――はとりが、死んだ」






刹那――――






紫呉の全身から、力が抜けた。
目の前が、暗く沈んで行く。
一瞬にして世界から色が抜け落ちた。


空気が重く圧し掛かる。
息が出来ない。
自分は、これまでどうやって呼吸をしてきた・・・?
自分は、これまでどうやって立ってきた・・・?



意識が闇に沈み、視界が反転する。
冗談であって欲しい。これは何かの間違いだと。
自分は悪夢を見ているのだと――――




「・・・・・・嘘」



呟く自分の声が、震えて言葉にならない。
唇が、まるで自分の物ではないみたいだ。





「・・・嘘・・・・・・嘘だ・・・」



一体、何時からだったなんて、そんなこと覚えていない。
反発心は、何時の間にか恋慕となり。
心を通わせるようになって、どれだけ時が過ぎたのだろう。




――――愛してる
何度もそう、繰り返し口にした。



はとりと別れた、あの日のことをまだ、昨日のことのように覚えている。
絡めた腕と。視線と。
重ねた唇と。想いと。
その仕草の一つ一つを忘れまいと誓った、あの日のことを。




「・・・嘘だ・・・・・・」



もう二度と、はとりの声が聞けないなんて。
自分を抱き締めてくれた彼に、もう二度と逢えないなんて。
はーさんが・・・はとりが、死んだなんて・・・・・・



――――――そんなの嘘だぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!」


そして紫呉は、絶叫した。




















養生所の火事は、如何やら放火であったらしい。
そんなことを、暫らく経った後、風の噂で聞いた。



何故、はとりが犠牲にならなければならなかったのか――――
そんなことを尋ねても、誰も、答えてはくれない。
圧倒的な哀しみの感情が、後から後から溢れてきて・・・・・・
紫呉は自分が今、何をしているのかも、解らなくなりそうだった。




――――三年経ったら、必ず、此処へ、お前を迎えに戻って来る・・・・・・



そう、約束したのに。
必ず・・・・・・必ず、戻って来るって、そう約束したのに。


「如何して・・・如何して・・・はとりぃぃっ――――――!!!」


悲痛なまでの紫呉の叫びは、部屋に木魂して、消えた。















                         *
















最初、綾女は飛脚からその報告を聞いた時、信じることができなかった。


「誤報では・・・・・・誤報では、ないのかいっ!?」


彼が――――はとりが、紫呉を遺して逝ってしまったとは、どうしても考えられなかった。
詰問するように、そう問い掛ける。

如何か、如何か、誤報であってくれ・・・・・・

報告書によれば、最後に彼と話をしたのは、調剤師の女性だった。
だが、或る火消しの話では、はとりが燃え盛る養生所の中に入ったのを、見たという。
若しそれが事実で、はとりが本当にその養生所の中へ入ったとしたら――――
恐らく・・・生存は、絶望的だろう。



「・・・何ということだ」



額に手を遣り、耐えるように目を伏せる。
自分が最も恐れていたことが、現実となってしまった。
彼の帰りを待ち侘びている紫呉が、この事実を知ったら、どんなに哀しむであろう。
だが、何れは解ってしまうこと。
所詮、このまま隠し通すことなど、綾女には、出来なかった。

覚悟を決めて、紫呉の部屋へと急ぐ。
通りすがりの女中が、驚いたように、自分の方を振り返った。
きっと今、自分は悲愴な顔をしているに違いない。






はとりの「死」の報告しらせは、あまりにも、唐突過ぎた。
紫呉は、それを聞いた瞬間、魂が抜けたように表情をなくして、その場に崩れた。

その顔色は異様に真っ白で――――否、白というよりは寧ろ、
無に近かったのかもしれない。
思わず、目を伏せてしまいたくなるような、そんな光景。


暫らくの間、紫呉は食事も水分も一切拒否し、面会にも応じなかった。
綾女が紫呉を見た時、衰弱し切った彼は、蒲団に包まって、ぼんやりと外を眺めていた。
生きているのかも、死んでいるのかも解らない、無気力な状態。
はとりと離れてから、数年の間。
これまでは、気丈に振る舞っていた彼と雖も、もう限界に近かったに違いない。
流石に、この報告はあまりに残酷過ぎた。



来る日も、来る日も、喚き、叫んでいた紫呉の表情に、明確な変化が表れたのは、それから約半月後のことであった。




「はーさんねぇ・・・きっと、僕の処へ帰ってくるよ」




食事を持って、綾女が紫呉の部屋を訪れた時、彼は信じられないことに、笑っていた。
自嘲するわけでもなく、穏やかに笑うわけでもなく、薄く笑う紫呉。
クスクスと笑って、此方を見返してきた彼の瞳に、自分の姿は映っていなかった。





――――





虚空を眺めていた紫呉が、突然、何かを叫んだ。
綾女は、その声に、その表情に、押されるように後退する。
何を云っているのかも、解らない。
一頻り叫んだ後、子供のように喚いて、紫呉はまた、ケラケラと笑った。





モウスグ・・・キットモウスグ、ハトリハ、ジブンノモトヘ、カエッテクルンダ






譫言のように、何度も同じ言葉を繰り返す紫呉を見て、
綾女は紫呉の身に何が起こったのかを確信した。




「・・・・・・狂ったのか」

吐き捨てるように、呟く。



不条理なはとりの死に対する憎悪と、はとりを想う愛しさとの狭間で、
紫呉の精神は少しずつ均衡バランスを崩し始めたのだ。
憎悪が、哀しみが、愛しさが、少しずつ、紫呉の精神を蝕んでいく。
凍て付くような世界の中に、たった独りで取り残されてしまった紫呉。
何時までも、変わらない無機質な風景を、彼は望んでいるのだろうか。









あぁ、彼が・・・・・紫呉が壊れていく。









「如何して―――何でぐれさんが、こんな目に遭わなきゃならないんだっ――――!!」
銀糸の髪の毛を振り乱して、綾女は叫んだ。
慟哭と哀切と感傷と憐憫、全ての感情が、複雑に絡み合って、綾女に押し寄せてくる。

今や、紫呉の心は、完全に壊れてしまった。
若しも、今、はとりが此処にいてくれたのなら――――


狂ってしまった紫呉を見ながら、綾女は、そう願わずにはいられなかった。
最早、在り得ない、絶望的で、非現実的な望み。

数年前の夜、最後に擦れ違い様に自分に託した、はとりの言葉が、
今、綾女の胸に、重く圧し掛かっていた。
















                         *















数年前のあの日――――夜半もとうに過ぎた頃、綾女は部屋で転寝をしていた。
熟睡をすることが出来ないのは、何時ものことであるから、別に不思議ではない。
夜は総身が、眼や耳へと変化する。

無理に眠ることを潔く諦めたのは、恐らくその所為であろう。
瞼を閉じた所で、耳を塞いだ所で、見えるものは見えるし、
聞こえるものは聞こえるのである。



ものは眼で視るものではない―――心で視るものだ。
音は耳で聞くものではない――――心で聞くものだ。



そして、その日、自分の耳に届いたのは、足音だった。
通常の人間ならば、聞き逃してしまいそうな足音。
だが、綾女はその足音の正体を、即座に理解する。
啜り泣くような足音を聞いて、綾女は、廊下側の障子を開けた。





――――
矢張り、いた。
端正な横顔が、月明かりに晒される。スラリとした躰。
空に輝く月の光は、漆黒の髪と瞳を、蒼く浮かび上がらせていた。
長い睫毛が、濃い影を落とす。
その表情からは、何も読み取れない。
綾女が思った通り、そこに佇んだまま、耐えるように空を見上げていたのは、はとりだった。





「・・・ぐれさんを置いて帰るには、まだ早過ぎる時間だねっ!――――
冗談か本気か、解らないような言葉を投げる。
ほんの少しだけ、嫌味を云ってみたかったのかもしれない。
長い銀色の髪が、夜の風に揺れた。




「・・・幕府から、内乱の地へ行くよう書状が届いた。今日・・・此処を発つつもりだ」

淡々とした口調。
綾女は全身でその言葉と、夜気を受け止めた。



「ぐれさんを・・・ぐれさんを―――置いて行くつもりなのかいっ!!!
とりさんが、戻って来なかったら、ぐれさんは今度こそ、
天涯孤独の身になってしまうんだよっ――――!!」
長距離の旅は、命懸けと聞く。
彼が、此処へ無事に戻ってこれる保証は、何所にも無い。
責めるような口調で叫んだ自分の肩が、震えていた。




「・・・解っている」

そう弱々しく答えた彼もまた、辛いのだろう。
だからこそ、余計にそれが、綾女には腹立たしかった。
沈黙だけが、虚しく通り過ぎて行く。






「・・・逃げて―――ぐれさんを連れて、此処から逃げるんだっ!!!
二人で内乱の地にでも、何処にでも、行けばいいっ――――!!」
次に口から飛び出してきたのは、自分でも信じられないくらいの消極的な言葉だった。

それでも、綾女は・・・・・・紫呉が哀しむ姿は、もう二度と、見たくなかったのだ。
佳菜が死んでしまった時、彼は立ち直るまでに、相当、長い時間を要した。
それが解っているからこそ・・・今度こそ彼には、倖せになって貰いたかったのである。




「紫呉を―――守りきる自信が・・・ない。危険な目には、遭わせたくないんだ」
弱々しくそう云ったはとりの瞳には、深い哀愁の色が漂っていた。
その表情に、思わずハッとする。



廓を逃亡するのに、幾つか方法はあった。
一つは、大門から男装して四郎兵衛の目を欺いて出る方法。
もう一つは、塀を乗り越え、溝を渡って逃げる方法。
だが、何方どちらにしろ、遊女屋が追っ手を頼めば、取り押えられるのは、
時間の問題だった。
捕まれば、死よりも辛い、残酷な仕打ちが待っている。
その上、捜索に掛かった費用の全てが、年季増しになるのだ。



だからこそ、はとりは、確実な方法を選んだのだろう。
任務を果たしたら、紫呉を迎えに来られるように。
彼にはもう、恐らく覚悟が出来ている。
だから、もう自分の出る幕はないのだと――――綾女は思った。




はとりが、此方を振り返ると髪が靡いた。
紋付の羽織に袴。
それは、綾女が初めて見た、はとりの正装姿だった。
その姿を見れば、彼が不自然なことくらい、解りそうなものなのに・・・・・・
己の鈍さに、綾女は嘆息する。
彼が、自分の横を通り過ぎようとした。
同時に、揺蕩たゆとうっていた微風も通り過ぎる。




刹那――――




自分の横を通り過ぎる瞬間、彼の口が微かに動いた。





「紫呉を――――頼む」





その余りにも重い言葉に、息を呑む。
聞き違えではないかと、思わず、我が耳を疑った。
それを確かめるべく、後ろから、はとりに向かって叫ぶ。


だが――
幾ら綾女が呼び掛けても、はとりは二度と振り返らなかった。


はとりの姿が闇夜に溶ける。
夜明けまでは、まだ遠く。
夜はただ深く――――
綾女は、消え行くはとりの姿を眺め、そして、項垂れた。





















                         *




















暦が変わった。
はとりが此処を去ってから―――三年目の春。



すっかりやつれてしまった紫呉は、まるで、別人のようであった。
閉ざされた空間の中に、異様な香気が充満している。
紫呉は、相変わらず自分を見ても、何も反応を示さない。
辛うじて開かれたその眼は、何も見ていなかった。
綾女は、それでも紫呉に声を掛けようとして―――






瞬間――――






キラリと光るものが、紫呉の着物の袖から覗いた。
短刀だ――――


――――っ!!」


腰を浮かす。
咄嗟のことで、反応が遅れた。
喉へとそれを押し当てた紫呉の手を、綾女はすんでの所で、上から叩く。
落ちた短刀を拾い上げようとした、紫呉の手の甲をピシャリと叩くと、
綾女は強く唇を噛んだ。
焦点の合わない瞳で、紫呉が叫ぶ。




「返して・・・それを―――返して・・・・・・・はーさんが、呼んでるんだ――――!!」




死ぬことで、死ぬことで、若し紫呉がはとりと一緒に生きようとしているのなら。
そうだとしたら、もう、彼は疾っくに、死んでいる。
そんなのは嫌だ。
こんな終わりは、誰も望んじゃいない。
目を覚ましてくれ―――




―――パンッ!!!"

乾いた音が、部屋の中に響き渡った。
頬を打った綾女でさえも、驚くほどの大きな音。
紫呉の唇から、血が滲む。

紫呉は恐らく今、何が起こっているのかさえ、解っていないのであろう。
打たれて赤くなった頬を片手で抑えて、そして微笑んだ。
自虐的なその笑みに、眩暈を覚える。


綾女は両手で紫呉の肩を掴んで、ありったけの声量で叫んだ。


「ぐれさんは・・・・・・平気だと思ったの!?彼が――――とりさんが、キミを遺して
どんな思いで死んでいったか・・・・・・平気なはず・・・・・ないじゃないか。
とりさんはきっと、キミ以上に苦しんだ!!
どうして・・・・・・何で――――何で、解ってあげないのさっ!!!」



このままいけば、恐らく紫呉は、狂ったまま自ら命を絶つか、
或いは、壊れてしまった商品として、慊人に殺されるかのどちらかであろう。

紫呉を打った手の平が、熱くて、痛い。
痛むのは、打たれた紫呉の方のはずなのに。
それなのに、何故、こんなにも心が痛いのだろう。






綾女の疲労も、もう限界に達していた。
自分では、駄目なのだ。
自分では、彼を正気に戻すことは出来ない。
狂ってしまった紫呉を元に戻せるのは、はとりしかいないというのに。




頼むから、誰か・・・・・・誰か、紫呉を解放してあげて。
誰か・・・・・・誰か、彼を救う方法を教えて下さい。
今、自分に何が出来る・・・・・・?







――――――――――――ダレカ、シグレヲ、タスケテ――――――――――――