時折頬を弄る風は次なる季節の涼やかさを感じさせたが
蹂躙するかのようなその抱擁は、僕の躰の奥深くに
情炎の火を灯した。

軽い水音を残して解放された唇には、
はとりの温もりがまだ微かに残っていて。
その口で、躊躇いがちに問う。

「はとり。最近、ずっと働き通しだったよね。
若しかして……疲れてる?」

「そんなことはない」

まだ背を抱きながら返してくる彼の言葉には幾分、
疲労の色が滲んでいた。

嘘だ。はとりは恐らく、意地を張っている。
草摩の人間は容赦のない我が儘を彼に云うし、
はとりの仕事が激務だということは常々感じていた。
夜昼ない緊張に晒され、ゆっくり休めるはずなどない。

せめて自分の前では素直になってくれればいいのに、と
声には出さず呟く。
空を仰ぐと、灰褐色の雲が厚く天を覆っていて
遠くの方では勢いを失くした白い煙が、行方を彷徨うように
宙に霧散していた。
その時である。

「紫呉のおじちゃん!」

澄んだ可愛らしい声が周囲に広がって
僕は温和な笑みを作り、振り返った。
如何して自分は、草摩の子どもに懐かれるのだろう。

陶磁器のような白い肌に、薔薇色の頬と唇。
その背にはたっぷりとした黒髪が流れていて
くるくるとよく動く黒曜石の瞳が笑った。
大人になれば、中々の美少女になるに違いない。

「やぁ。お出掛けかい?」

片手を上げて、髪を額から掻き揚げる。
落ち葉が風に舞い、ざわめくだけの色褪せた淋しい風景の中――
こつり、とその小さな靴底が石礫を踏み、躰が傾ぐその姿を。
僕はまるで違う世界で起こった出来事のように
瞬きもせず、注視していた。
その次の瞬間である。

ボン、という爆発音がするや否や砂塵が舞い上がり
渦巻く突風が躰を包んだ。
一挙に流れ込んできたその強い風に、子どもは怯えたように後退した。
思わず瞬き、その黒い眸を見て凍りつく。
余程、驚いたのだろう。
少女は瞳を見開いたまま、硬直していた。

やってしまった、と僕は静かに端座すると
硬く蒼ざめた面持ちで困ったようにはとりを見上げた。
ふわりと揺れたのは、漆黒の毛並み。
斯くして息を詰めるような沈黙の後、
はとりは、きょとんとしている幼子の顔を覗きこむようにして

「これはな。おじさんたちにかけられた呪いの所為だ」

と、唐突に告げた。
少女は肯きはしたものの、不服そうな顔になっている。
それはそうだろう。はとりが本当のことを話すなど、予想外だった。

「この黒い犬は人の言葉を話す。試してみるか?」

悪怯れもせずにそう云ったはとりは、僕の顔を覗き込んで目配せした。
その有無を云わせぬ強い調子に、僕は渋々重たい口を開いた。

「…驚かせてしまって、悪かったねぇ」

「すごい!!もっとお話して頂戴」

蕾のような紅い唇が綻んで。
それまで強張っていた少女の面に、漸く明るいものが浮かんだ。

「俺たちは物の怪に憑かれている。こいつは戌だ。
異性にぶつかると、今みたいに変身することになる」

自分の胸の裡など構いもせずに、素知らぬ顔で
熱弁を続けるはとりを恨めしく思い、僕は尻尾を振って抗議した。
少女は犬の姿になった僕を散々揶揄って、満足したのだろう。
やがて迎えに来た母親の元へと去った。

その僅かな間隙の後。
乾いた爆発音と共に、無音の輝きが空気を引き裂いた。

漸くむず痒い思いから解放されて清々した僕は、
地面に落ちてしまった着物を拾い上げる。
袖を通すと仄かな金木犀の匂いが周囲に散って、
それと共に沸沸と怒りが込み上げてきた。
帯を締めながら、はとりに詰め寄る。

「如何してあんなことを云ったのさ!」

身を隠して生きることこそが、十二支に課せられた使命だった。
一族の秘め事をいとも簡単に明かしてしまうなど、彼らしくない。

「記憶の操作なら君の得意分野じゃない。いつもみたいに…
――消しちゃえば良かったのに!!」


刹那――

世界が揺れて、僕の躰は横に飛んだ。
目の裏に火花が散って、錆びた鉄の味が喉を灼く。

「…っ」

重い瞼を半ば無理やり抉じ開けると、空と雲の境界線は酷く曖昧で。
そこだけが白い帳に包まれているような酷く頼りない感覚がした。
殴られた頬がそこだけ別の生き物の鼓動を刻むように痛み出し、
僕は無意識の内に、手の甲を押し当てていた。
冷ややかな瞳が、地に這い蹲る己の胸を射抜く。

「本気で…本気で、消してしまえば済むと思っているのかっ!?」

怒号。琴線をピンと張ったような硬い声だった。
はとりの手は、怒りで僅かに震えていた。
その険悪な顔に、喉元まで出掛かった言葉が胸の奥に沈んだ。
そうではない。そんなことが云いたかったのではないと伝えたいのに、
息だけが虚しく、ひゅうと漏れた。

敗北者のように片膝をつき、躰を起こす自分は不様でも愚かでもあり。
僕は少しだけ自嘲して、頬を緩めた。

零れた水が盆に返らぬように。
一度放たれてしまった言葉は、二度と元へ戻らない。
これを、後悔と呼ぶのだろうか。


「あの子は、お前のことを慕っていたんだろう…?」


如何しようもない程の切ない眼差し。
はとりの吐く息に、哀しみの色が雑じった。

嗚呼。如何してこの人は、こんなにも残酷に、
それでいてこれ程までに優しく僕を追い詰めてくれるのだろう。

はとりは自分のことを大切に想ってくれているからこそ、怒ったのだ。
そう思った瞬間、不意に込み上げた感情が、僕の胸の裡を
喩えようもない寂寥感で満たした。

「ごめん。ごめんね…はとり。僕が悪かった。君の…」

苦しみが解らなかったわけでもないのに、と。
眦を濡らしたままに続ける。

「…もっと殴っても、良いよ」

聞き取れぬほどの幽かな声音。
崩れそうになる己の背を支えるように包み込んだのは、
はとりの厚い胸板だった。
その遣る瀬無さに、ひとつ雫が頬を滑り落ちる。
甲でそれを拭うよりも早く、その手首を温い大きな掌が、静かに掴んだ。
その優しさが、新たな露を誘う。

音を立てず、しめやかに地を濡らし始めた雨は
秋の訪れを告げる小さな花にあたって砕け、弾けた。