初夏の匂いを織り込んだ風が、白髪雑じりの髪を攫った。
空では白銀の糸で縁を縫ったかのような雲が朦朧と光っている。
俺は少し淋しくなった前髪を掻き揚げながら、凄みをきかせた声を発した。

「紫呉。貴様、帛に何を吹き込んだ?」

「え!?いやぁ、僕は別に何も……」

半歩遅れて隣を歩く中老の男が、焦ったように口籠る。
曖昧な語尾と咄嗟に逸らされた視線が、その後ろめたさを物語っているようで。
俺は険しい表情を崩さぬまま半眼になると、冷やかな口調で投げやりな一瞥を与えた。

「嘘吐け。開けるぞ腹を。急に小説家になりたいだなんて。お前以外に誰がいる」

手塩にかけて育てた我が子の行き着く先が、この男と同じとは。
情けなくて涙が出そうになる。
そんな憂慮の色を隠しきれない俺の心中を知って知らずか。
紫呉は特に悪びれる様子もなく、しれっと爆弾を落とした。

「やー、帛から『努力しなくて済む系の仕事ってないかな?』って訊かれてさ。
志岐は止めたんだけど、今後の人生の道標にと思って『きりたにのあ』の
新作をあげたんだよね。ほら、君も読んだ『涙』の初版本とか」

何故もっと必死になって止めてくれなかったんだ、と。苦い思いが胸を掠める。
思えば帛は幼い頃から紫呉の部屋に入り浸っていたではないか。
冷静に考えてみれば純真無垢で好奇心の塊のような子どもが、
クラゲの餌食にならないはずがない。
己の迂闊さに歯噛みする思いで、俺は頭を抱えて低く唸った。

「もー!はーさんってば真面目過ぎ!今からそんな調子で如何すんの!?」

禿げちゃうよ、と陽気な声が降ってくる。
誰の所為だと全ての元凶を睨みつけると、俺は呼吸を整えながら
忌々しげに息を吐いた。

「お前が帛のことを疎んでいるのはよく解った。頼むから金輪際
あいつに関わらないでくれ」

「やだなぁ、はーさんの子だもの。君と同じくらい大好きで、
大切に決まってるじゃない」

からからと笑って開き直ったように胸を張る紫呉を、鋭い眼光で威圧する。
胸に芽生えたのは、殺意にも似た感情。
恨み言の一つでも云ってやろうかと口を開きかけた瞬間、喧しい声が宙へ散った。
風ひとつを置き土産にして俺の横を駆け抜けて行った学生たちが、
交差点で立ち止まる。
程なくして信号で足を止めた紫呉が、そう云えば、と。思い出したように零した。

「帛には記憶の隠蔽術……伝承しなかったんだね」

遠い昔を懐かしむような口調だった。
己を見上げる深い色の瞳の奥は切なげで、何処か優しい。
俺は未だ尽きぬ悔恨を抱いたまま、ひとつ溜め息を吐いた。

――必要ない。もう、終わったんだ。俺の代で最後にする」

「ふうん。全部はとりが背負うんだ。辛い思いをするのはいつも君ばかり……か」

昔も今も、と。紫呉は独り言を呟くかのように淡々と続ける。
拗ねているような口調だった。
遠い記憶から呼び寄せた過去の出来事が、当時の怒りと重なったのだろうか。
この男にしては珍しく硬い表情に、過ぎ去った歳月が蘇って。
ほんの少しだけ、昔に還る。
自分がまだ十分に精気盛んだった頃を。
今はもう――すっかり色褪せてしまった淡い恋の面影を探す。

「お前は佳奈を嫌っていたからな」

「あらやだ。知ってたの?はーさん」

歳の割に童顔で切れ長の瞳がくるりと動いた。
流れてきた雲が陽を隠して。
すうと眇められた黒曜石の双眸が、深い闇の色彩を帯びる。
そうして男はゆるりと微笑んだ。

「そう。僕――聖女は嫌いだ」

紫呉の冷酷な笑みを見るのは久し振りだった。
歳相応の陰りを持つ老成した男は、ぞっとするほど低く据わった声で呟いた。

「何を考えているのか解らない。事実、あの子は君を救えなかった」

「それでも――繭のことは好いていた。そうだろう?」

「君をよく解らない女に獲られるくらいなら、彼女の方がマシだと思った」

繭の方が人間らしい。それだけだよ、と。
紫呉は乾いた声で嘯いた。

人一倍己が傷つくことを恐れる奴だから、いつものように笑って流せば
良かっただろうに。
それをしなかったのは、掴みどころのない男の最後の矜持なのだろうか。
つと漏らした本音と一瞬だけ強張った面が、彼の気弱な心を映しているようで。
そのいじらしさに、愛しさだけが募る。

他人に遠慮するように平坦な道の淵を歩く。
――そんな人生は、この男らしくない。

俺は駄目だったから。
紫呉には誰にも流されず、生きたいように、自由に生きて欲しかった。
時に親身な助言を与え、時に思惑通りに事を運ぼうとする傲慢さを叱咤して。
敵にも味方にもなる積りはなかったが、見捨てると云う選択肢はなかった。
支えになりたいと願う心は、紫呉には必要のないものかもしれないけれど。
何時しか疲れ果てた男が、少しだけ羽を休めることができるように。
誰よりも何よりも、一番近くで労わり、包み込んでやりたいのだと。
それほどまでに紫呉に惚れているのだと。
その頼りない肩を強く、引き寄せる。

「俺の前で意地を張ろうとするな。この莫迦が」

信号が青になり、歩みを止めていた人たちが一斉に動き出した。
ほんの束の間、二人だけ取り残される。
風に揺らぐ街路樹の葉だけが、何かに耐えるように留まっていて。
僅かな沈黙の後、どこか無理に明るさを装った声で紫呉が無防備な姿を晒した。

「僕はね。誰よりも君に――はとりに、倖せになってもらいたかったんだ」

余裕のある微笑が壊れ、目尻の皺が一層、深くなった。
泣き笑いのような貌だった。
此方を見上げた眼窩の奥で、哀しげに潤んだ瞳が光った。

「はーさんは……ちゃんと、倖せだった?」

救いを求めるかのような眼の中には、懐疑的な色が滲んでいて。
少し鼻に掛かるくぐもった声は、俺の胸を確かに搏った。
あの頃よりも少し痩せた肩にそっと頬を寄せて、低く告げる。

「ああ、倖せだ。お前が――俺に倖せを、家族を与えてくれたんだ」

全てを諦念し、天涯孤独を決め込んだ俺に、軌道修正の契機を与えてくれた。
喩え還る場所を持たなくても、未来はまっさらな状態から始めれば良いと教えてくれた。
今、生きている実感さえあれば。自らの足で歩もうとする決意さえあれば。
人は還る場所を手に入れることもできるし、俺自身が誰かの還る場所になれるのだと。
かけがえのない存在になれるのだと、教えてくれた。

何気ない日常が。笑顔が。笑い声が。なんと幸福だと教えられたことか。

だからどうかこの先、何度でも教えて欲しい。
地に落ちた一粒の種が、いつしか芽吹いて花を咲かせ、やがて大きな実を結ぶように。
俺たちが迷い、躓きながら歩んだ道は、決して間違っていなかったのだと。
どんな逆境の中にあっても、必ず何処かに希望があると信じて。
諦めずに前へ進んで行けば、その姿勢は必ず倖せを手繰り寄せる。
きっと、そうやって人は未来を切り開き、新たに還る処を見出していくのだと。
背筋を伸ばして、希うように天を仰ぐ。

見上げてみれば、全ての世界が澄み渡っていた。
あの頃と何も変わらない空の青は、狂おしいほどの幸福を昇華させて
これからもずっと続いていくのだろう。
空一面に漲る光に導かれるように視線を転じると歩道の先には見知った人影があって。
そっと紫呉が目配せをした。
雑沓からふうと現れた愛娘が、視界の中で大きくなっていく。

「父さん」

――帛」

ふたつの声が輪唱した。
もう充分大人の女性に成熟した帛が、落とすような笑みを泛べる。
その細められた双眸が誰かに似ているような心持がして。
俺は澄明で稀薄な輝きが、静かに胸の底に沈んでいくのを感じていた。