入口の唐紙がすうと開くと同時に、凍てついた冬の空気が滑り込んできた。

午を過ぎた冬の陽射しは、白い障子を通して畳の上に長く伸びて。
立ったまま息を弾ませている紫呉を仰ぎ見ると、外界の明かりは
彼の乱れた髪の尖端に、狂おしい程の光背を与えていた。


「はーさん、お待たせ。準備が出来たから、もう来ても良いよ」

今日の紫呉はそれこそ、今に鼻歌でも歌い出しそうな程に機嫌が好い。
釈然としない気持ちを抱えたまま、云われるままに後を追うと
見慣れた風呂場へと案内された。

室を埋める湯烟は、ぼうと光る夜の灯を半透明に押し崩し、
世界を揺ら揺らと変容させている。
やがて、朦朧とした真白な空間から露になったその物体の輪郭を見て、
俺は呆然とした。

「これは……一体、どういう積りだ?紫呉」

額に青筋が浮かぶのを自覚しながら、精一杯己を自制し
震える指で湯槽を指す。
巫山戯ているのか真面目なのか解らないから余計に性質が悪い。
一瞬の逡巡の後、視線を泳がせていた紫呉は
翅を畳むような仕草で長い睫を伏せると、口を開いた。

「えーっと、チョコ風呂。はーさんと一緒に入ろうと思って」

悪怯れた様子もなく、極自然にサラリと云ってのける紫呉が
いっそ恨めしい。
両手を肩に置くと、俺は憮然とした表情で宥めるように諭した。

――紫呉……頼むから、冗談は顔だけにしてくれ」

「あれ?気に入らなかった?喜ぶと思ったんだけどなぁ……」

「ほう……どの口が云うか、それを。酷い臭いで眩暈がしそうだ」

そんなに妙な臭いがするかなぁ、とひょいと中を覗く紫呉の頭を
湯槽へ沈められたらどれ程、すっきりするだろう。
長年の付き合いなのだから、寄り添いあう気持ちさえあれば
大抵のことは許せるはずだった。

だが――胸に沸沸と湧き上がってくるのは、怒りの感情。
立ち昇ってくる熱く湿った吸気と甘い匂いに
躰を捻じ切られるような倦怠感を覚えながら、
俺は戦慄く唇を奮い立たせた。

「抜くぞ」

「ええええ!!??折角頑張って作ったのにィ!!!」

「お前は子供か。少しは周りの迷惑を考えるんだな」

唇を尖らせて脹れっ面をしている紫呉の額を、指で軽く小突く。
恰も救いを求めるような情けない視線が束の間、纏わりついた。

「はーさんは、真面目過ぎて詰まらないよ。そうだ!
あーやの処でやってみようかなぁ……それとも――

慊人の処が良いかなぁ、と。
そう云った紫呉の顔がふと、真顔になった。
その暗い掠れた声音は、平生とは異なる寂寥を含んでいて。
俺は砂を噛むような思いで言葉を吐き出した。

「俺を――試すのは止めろ、紫呉」

微笑を硬ばらせ、くしゃりと泣きそうな顔になった紫呉を
ふわりと抱き包む。

己の想い人は残酷な無邪気さと、危うさ故の激しさを
合わせ鏡のようにして裡に有している――そういう人間だった。

彼はそれこそ呪詛をかけるような気持ちで変革を望み、
俺を生温い世界へと躰毎、誘う。
卵のようにツルツルとした安穏な世界に、
ほんの小さな罅を入れることが、紫呉の目的なのだ。
その奇異な企みを知りつつも見逃している自分は
或る意味で共犯と云えよう。

だがそれでも――
俺は、この静かな魔物が愛しいのだ。

「今日の処は――これで我慢してくれ」

ひとつ咳払いをして首筋に唇を寄せると、
紫呉は仕方ないなぁ、はーさんの莫迦、と。
くつくつと笑って栓を抜いた。

渦を巻きながら流れる水は、二人の間にあった緊張を緩ませてゆく。
紫呉の口許に零れ落ちそうな悦びが溢れて。
それが艶めくように煌めいた。

完璧に寛ぐ愛なんて、きっと存在しない。
だが、相手を深く愛すれば愛する程、多少、理不尽なことがあっても
その人を幸福にしてやろうと自然、心が働くものだ。
それを惚れた弱みと呼ぶのだろう。

甘い諦めの感情を持て余しながら、夢よりも確かなものに触れる。

薄い肩を庇うように抱いて大きく前へ踏み出すと、
極寒の季節を越えた春の薄い陽が足許に伸びて。
想いひとつも儘ならぬ様を嘲るかのように戯れた。