寺道を踏んで石段を登ると、そこは不気味な静けさに包まれていた。
焚かれている松明だけが、ただパチパチと焔を弾かせている。
訪う者の心を澄ませる神の住居。
境内を吹き抜ける北風には、微かに雪の匂いが雑じっていた。

「はーさん、寒い」

呟きが、白い息と共に闇に掻き消える。
片手に本を抱えた紫呉の手には、勿論手袋などない。
だから身支度は確りしろとあれほど云っただろう、と。
はとりは書痴の想い人を見て、渋面を作らずにいられなかった。
若い頃から暇さえあれば本を読み、詩とも散文ともつかぬものを
書き続けていたこの男は、大人になっても相変らずだ。

「さっさと済ませて――帰るぞ」

神仏を前に賽銭を捧げるようになったのは、何時からだろう。
疾うに捨てた神仏に今更縋ったところで、都合の良い勝手だと云うことは
充分、解っている。
だが――はとりは、無意識の内にコートのポケットを弄ると
新札を投げ入れ、拝殿に向かって軽く手を合わせた。

――今年も彼と共に在れますように。

短いけれども、確かな祈り。
それは殆ど、誓いにも似ていた。

すうと瞳を開けると、冬なのに深い紫の単を愛用している
隣の奇っ怪な男は、まだ熱心に何かを祈っている。
閉じた瞼から伸びる長い睫は、美しい蜻蛉が止まっているかのように
眼窩の辺りに薄い影を落としていた。
視線が震え、愛しい男の顔が揺れて見える。

もっと楽な生き方も出来たろうに。
もっと倖せな生き方もあったろうに。

それでも、紫呉はそれを選ばなかった。
どれ程、苦しくても困難でも、敢えて己と歩む道を択んだ。

他人とも己自身とも真剣に向き合うことを避けて、
ただ一切が過ぎて行くことばかり願っていたはとりが、
こんな風に誰かとの未来の幸福を願うようになったのは――
きっと、他でもない紫呉の所為であろう。

彼と共に歩み、彼と共に悩み、彼と共に生きることで
はとりもまた愛すると云うことを識ったのだ。

縁や利益などなくても良い。
ただ隣に、心の中の風景に紫呉が居る。
それだけで、充分だった。

見上げれば尚余りある高い樹木は、季節が変わると枝の隅々まで
青青とした葉をつけるであろう。
次なる世代の芽は、確実に育っているのだ。

「ほら――早くしろ」

はとりは一瞬躊躇した後、己の手袋を取って左手を差し出した。
ふわりと零れた白い吐息が、風に舞う。

「は……ぁさん?」

紫呉はおずおずと顔を上げると遠慮がちに、手を握った。
ぬくい、と。
彼の声に温かい感情が戻ってくる。
同時に、彼の瞳の奥に宿っていた妖しい焔が揺らめき、
形を失って、潤みながら溶けていった。
茶目っ気のある表情が年齢よりもずっと、彼を幼く見せている。
それがはとりには眩しくて堪らなかった。

「ありがとう」

婉然と微笑む紫呉は、艶やかな蝶のようで。
じんわりと押し寄せてくる幸福感が、はとりの胸を熱くさせた。
きっとこれからも二人でひっそりと肩を寄せ合いながら、
こうして生きていくのだろう。

石段を降り、自分たちが残した靴跡を辿るように並んで歩きながら、
はとりは先刻祈った己の希いが、紫呉のそれと同じであれば良い、
否、そうに違いないと思った。