軒を打つ雨だれの音が止んで、静寂が優しく室を包んだ。
壁の時計の微かな音だけが、確かに刻が流れていることを知らせてくれる。
胸の裡で燻る不安が徐々に大きくなり始めた頃、漸く玄関で気配がして。
想い人と共に、湿り気を帯びた冷気が侵入してきた。

「遅かったな」

紫呉、と声を掛けると、自然、頬が緩んだ。
見覚えのある服を着た紫呉が申し訳なさそうに片手を上げる。

「ごめん、ごめん。探していた本、持ってきたよ」

「雨の中すまなかったな」

「気にしないで。もう殆ど止んでた。それに僕も――はーさんに逢いたかったし」

浅く微笑した紫呉は、両足を折るようにぺたりと畳に座った。
可愛いことを云ってくれる。
本は口実で本当はお前に逢いたかったんだと。
そう云ってしまえたら、どれ程楽になれるだろう。
だが結局、俺は何時も通り怜悧な鉄仮面を被った。
こんな生き方しかできないのだ。きっと、この先も。
そんな己にうんざりと眉を顰める。

「……あ、若しかして怒ってる?」

気まずそうな声。
不意に胸の深い処に忍び込んだ痛い程に切ない感情を誤魔化すように
違う、と答えると声が乱れた。

「怒ってなど、いない」

咳払いをして声を整える。
陽に焼けて黄変した本からは、古く掠れたインクと埃の雑じったような
匂いがした。
不可思議な懐古の情に浸っていると、何かを云いたそうに
此方を窺っている視線に気付く。

――何だ?」

「ねぇ、あれって……はーさんが着てた服だよねぇ?」

そう云うと、紫呉は好奇心に満ちた眼差しを室の隅に置かれた箱へと
投げ掛けた。
そこには役目を終えた服が、無造作に高く積まれていた。

「嗚呼、処分しようと思ってな」

「えっ!?捨てちゃうの!?全部ッ!?」

良い服なのに、と名残惜しそうに唇を窄めた紫呉が何を切り出したいのか
瞬時に悟る。
輪郭が柔らかく崩れ、急に幼い表情になった彼の口から滑り出たのは、
俺の想像通りの言葉だった。

「はとり。暫くでいいから、服、貸してくれないかな?」

甘えるように掴まれたその手に、力が籠る。
瞬間、紫呉の髪からふわりと石鹸の香りが漂って。
その匂いを奇妙に、だが生々しく鼻に絡めながら俺は眸を伏せた。
何故、彼が急に洋服を欲しがるようになったのか。
その理由は疾うに解っていた。ただ、認めたくなかっただけで。

「好きなだけ持って行け。どうせもう着ない。それに――
今、お前が着ているその服だって、勝手に俺の部屋から
持ち出したものだろう?」

「あらやだ。バレてたの?」

「この莫迦が。あんなに散らかしておいて気付かないわけないだろう」

それよりも、と一呼吸置いて後を続ける。

「補佐の仕事は――順調なのか?」

刹那、紫呉の手が、ぎこちなく止まった。
瞬きもせず此方を凝視していた深い色の瞳が次第に潤んでゆく。
そんな表情をされたら責めることさえできない。

「正直、順調じゃない。課題も山積みのままだ。解決するかどうかさえ解らない。
でも――

己を捉えていた視線が、緩緩と遠退く。
同時に、腕を掴んでいた手からふっと力が抜けた。

「今度は僕が傍にいてあげる番だから。ごめんね、はとり」

小さな声が、未だ揺れ動く心そのもののように、形の良い唇から零れ落ちた。
紫呉は自分には全てを包み隠さず曝け出す。
それは昔から変わっていない。
それが嬉しくもあり、ほんの少し哀しかった。

――解った。だが今日は此処に泊まっていくんだろう?」

脆く折れてしまいそうな心を、如何にか繋ぎ止める。
紫呉の眉が切なげに寄り、細い息が肩を揺らした。

「……ん」

切れたゴムのように間延びした紫呉の返事がもどかしくて、
俺は殆ど強引に引き寄せ唇を重ねた。
途端、先刻よりもずっと強い、甘やかな空間が周囲に広がってゆく。

「俺のその服――よく、似合ってる」

ずっとお前に着ていて欲しいんだ、と囁くと。
切羽詰まった愛撫のような声に、瞠目した瞳が揺れた。
紡ぐ言葉も、織る声も。全て己のものにできたのなら。

ふと視線を転じると、薄墨色の空には微かに紅の色が雑じっていて。
淋しげに翳りながらほんのり色付くそれは、紫呉の頬の色と同じだった。