幼い頃は、教会が大嫌いだった。
十字架の前で跪く人々。
パイプオルガンの喧しい音色。
手の込んだ石細工とステンドグラスが、それぞれの色に乗せて、
押し付けがましく迫ってくる。
飽くなき光を求める愚かな人間が作り出した、昏き情熱の集大成。
鰯の頭も信心から、とは良く云ったもので。
信心と信仰の違いも解らないくせに、正月には初詣、盆には墓参り、
灌仏会も祝えば降誕祭も祝う、信心深い一般大衆。
矛盾に満ちた世間の宗教。多宗教。
そんな彼らに倣うことなど、何もない。
救われない、想い。
救われない、欲望。
神は少しも平等ではないし、仮令、どんなに抗ったところで、
この呪縛から逃れることなど、出来ない。
だって幾ら願ってみたところで――――――
神はこの゛呪い゛を解いてはくれないのだから・・・・・・
紫呉は冷笑的な笑みを浮かべた。
彼にとって十字架など、徒の交差した棒に過ぎない。
沈黙を続ける神に、用はない。
だから紫呉は、大人たちから受け取った念珠を
不思議そうな顔で眺め―――――
それを空へと投げ捨てた。
〜A Merry Christmas to you!!〜 |
――――朝のようだった。
澄んだ空気に、耳が痛くなる程の静寂。
埃の匂いに誘われるかのように躰を起こすと、
欄間から差し込む西陽が、赫赫と部屋を染めていた。
朝ではない。もう、夕方なのだ。
立ち上がった拍子に蹣跚て、棚の上に手を付くと、
ドサリと音を立てて書籍が崩れた。
欠伸を噛み殺しながら、散らばった本を掻き集める。
紫呉の朝は遅い。
昼過ぎから起き出して遅い朝食を摂る日もあれば、今日のように夕方まで
寝過ごしてしまう日も多々あった。
醒きているのか、睡ているのかすら解らぬ半端な状態。
子供たちは皆出掛けているらしく、気が付けば、クリスマス・イブは一人だった。
卓の上に残された一枚の書き置き。
見慣れた可愛らしい字に触発されるように、昨夜の記憶が再生される。
―――違う、違うッッ!!夾君は、全然解ってないっっ!!
クリスマスは、恋人たちの大切な祭典なんだよっっ!!ね!?透君?
楽羅―――・・・・・・あの子も、もう解っているだろうに。
自分が何のために、夾を追いかけるのか。
夾が現在、誰を見て、誰を想っているのか。
それでも、あの子は――――
もう一度だけやり直す時間を、もう一度だけ愛する時間を
今再び欲するのだろうか。
諦めが悪いのは、彼女も自分も同じなのかもしれない。
繰り返されるのは、何時だって呼び出し音ばかりで――――
紫呉は繋がらない電話を忌々しげに睨め付けると、受話器を置く。
廊下は光量が少ない所為か、瞳に一枚、薄膜が張ったように燻んで見えた。
何時も以上に緩慢な動作で、座布団に坐る。ひんやりと冷たい。
縁側の障子は開いていて。
そこから、代わり映えのしない庭を覗くと、暈けた硝子に、
薄朦朧とした己の姿が重なった。
カタカタと、風が硝子戸を叩く音がする。
何だか彼一人だけが、別世界に居るような、奇妙な感覚。
紫呉は小さく溜め息を吐くと、黒い外套を羽織って戸外に出た。
*
朔風が、街路の吹き溜まりを払い、砂塵を巻き上げて通り抜けて行く。
肌を刺すような冷気がさっと頬を撫でると、僅かに残っていた眠気など、一瞬で消えた。
吐く息も、白い。
歩道のライトアップされた並木はとても温かそうで。
倖せそうな恋人たちの笑顔。
擦れ違う度に、ふわりと鼻腔を擽る甘い香り。
路には薄らと雪の化粧が施されていて、街灯に照らされた部分だけが
白く浮かび上がっている。
街も人も、内側からボウッと光っているような夕暮れの街。
あの水銀灯が瓦斯灯だったら、もっと暖かく感じられるのだろうか。
いっそ自分も、この中に埋もれてしまえたらいいのに。
それでも、そのエネルギーに、ほんの少しだけ温められている己を見つけてしまう。
ふと気が付くと。
来るつもりではなかったのに。
紫呉は何時の間にか、郊外にある寂れた教会の前に、佇んで居た。
重厚な門で遮られ、今は世界から取り残されてしまった教会。
――――――――――幼い頃は、教会が大嫌いだった―――――――――――
同じ境遇の者同士が、お互いの傷を舐め合って生きているようで。
―――・・・あーやは゛神様゛っていると思う?
―――はっ、はっ、はっ・・・何を云っているんだい?ぐれさんっ!!
僕こそ、その゛神様゛の生まれ変わりさっっ!!
―――・・・あーやは・・・゛神様゛っていうよりも、゛王様゛だと思うけど・・・・・・
―――ぐれさんっ!!何を云うんだいっ!!この僕を差し置いて、
他の誰が゛神゛に相応しいと云うんだいっっ!?とりさんっ!!
・・・君からもぐれさんに、何か云って差し上げ給へっっ!!
―――おい、お前ら。そのくらいにしておけよ・・・若し司祭が聞いたら・・・・・・
―――聞いちゃいないよ。心配性だなぁ・・・はーさんは。ね・・・?
はーさんは゛神様゛っていると思う?
―――・・・・・・さぁな。
―――素っ気無いなぁ・・・はーさんは。でも、十年経ったら・・・・・・
僕らは何をしてるんだろうねぇ。十年後・・・・・・また、はーさんと、もう一度、
此処で逢えたら・・・・・・それって、とっても素敵なことだと思わない?
何という、瑞瑞しい記憶だろう。
自分の過去は、寄せ集めの古いスクラップ帳だとばかり思っていたが―――――
如何やら、そうでもなかったらしい。
だから。
閑寂とした中に。
分譲予定地と書かれた不動産会社の看板を見た時。
何だか酷く、淋しくなってしまった。
自分たちが存在したことを、全て否定されたような感覚。
あぁ、自分にとって教会とは、幼き日への憧憬そのものだったのだ。
今年で、最後。
もう此処は取り壊されてしまう。あの想い出と共に。
如何してだろう。
忘れてしまえばいいのに、蘇ってしまった先刻の光景が、頭から離れない。
廃墟と化したこの淋しい風景の中で、誰も来るはずがないと解っているのに。
それでも、この教会は、自分と同じように彼を待っているのだろうか。
――――飽くなき光を求める愚かな人間が作り出した、昏き情熱の集大成――――
穢れた己を映し出す鏡のようで。
あれ程、嫌だったステンドグラス。
昔はもっと大勢の人で埋め尽くされたであろう。
木の温もりが漂うその長椅子は、すっかり朽ちかけており、
現在、天窓のステンドグラスには、蜘蛛の巣が掛っている。
祭壇は雪が積もっているかのように、真っ白な埃を被っていて―――
自分の足跡だけが、床の地色を覗かせていた。
原光を中和する柔らかな色彩。慈愛に溢れたステンドグラス。
月光に照らし出されるステンドグラスが綺麗だと思ったのは、初めてだった。
その美しさは、穢れた自分さえも、清めてくれるようで。
色彩華美な光に優しく抱き締められながら、紫呉は一人、微睡んだ。
―――――――――矛盾に満ちた世間の宗教。多宗教。――――――――――
人々の信仰からも打ち捨てられた無残な残骸。
閉ざされた聖域。
だが、それでも―――神に祈る人々が、居る。
見えるはずもない、現れるはずもない神に向かって。
――――不意に。
頬に、温かいものが触れた。
きっと、彼は来ないと、そう思っていたから。
それが彼の手だと、直ぐには気付けなかった。
自分の頬を包み込むように、優しく触れる手。
そこから感じる、温もり。
仮令、どれほど自分が神に愛されていたとしても。
惜しみなく注いでくれる彼の優しさには、適わなかっただろう。
「遅いよ―――はーさん・・・・・・もう、来ないかと思った」
緩く抱き込まれて、吐息が首筋にかかる。
伝わってくる温もりが、これほど心地良いなんて。
静かに見詰める、心配そうな紫水晶の瞳。
フとその瞳に映る自分に、気付く。
「―――済まない」
そう答えたはとりの声は少し掠れていて。
彼の口から指先へと煙草が移った。
躰を震わせながら、ソロリと腕を伸ばす。
憶えていてくれた。幼い日の約束を。
慊人の処から抜け出してくるのは、きっと大変だったろうに。
「・・・肝心なことは、云わないんだね」
「何の話だ・・・・・・?」
はとりの腕に頭を乗せて、僅かに身動ぐ。
真っ白なコートには、ステンドグラスの色彩が映り込んで、
部分部分を仄かに色付かせていた。
「・・・・・・寒い」
甘えるように、火照った頬を寄せると。
濡れた感触が唇に落ちた。
湿った肌の隙間から、はとりの指が入ってくる。
触れただけで熱を帯びたそこは、潤んで満ちた。
「我が儘な奴だな」
「誰の所為だと―――思ってるの?」
そう云ってクツクツと笑った次の瞬間。
痩せた躰の何所に、そんな力があるのかと思うほどに強く―――――
紫呉は抱き締められていた。
己の髪を撫でてくれる、はとりの指が心地良い。
自分を包み込む、その全てが嬉しくて。
飽き飽きしていた世界全てが、色付いて見えた。
もう―――寒くはない。
あぁ、好きだよ。はとり。
「ねぇ・・・?はーさん・・・゛神様゛っていると思う?」
だって、神は。
幾ら願っても、この呪いを解いてはくれないけれど。
紫呉には今、見たこともない神人の姿が見えている。
光の少ないこの教会では、可視と不可視の境界が微妙だけれど。
閉ざされたこの聖域では、見えるはずのないものまで、網膜に映るのだ。
「・・・・・・さぁな」
十年前と同じ答え。
そうだね、はとり。君らしいよ。
自分も神を信じていなかったし、何よりそれを信じている人間が嫌いだった。
他人のことなんて、如何でもいい連中ばかりで。
でもね、はとり。
人を救えるのは人だけで。
人に奇蹟を起こせるのは人だけで。
若しも神が人を救い、奇蹟を齎す存在ならば。
神は、はとり―――――君の中に、君のその心の中に、在るのかもしれないね。
子供の頃、埃だらけの煤けた床で、何時間も寝転んだまま眺めていたステンドグラス。
己の目に点るのは、執念の鈍い光。
神人の目には、希望の色もないが、絶望の色もない。
在るべきものは、全て不変のはずなのに。
光線の加減で如何様にも印象を変えるステンドグラスのように、
人もまた、変わることが出来るのだろうか。
何処からかパイプオルガンと鐘の清らかな調べと、子供たちの聖歌が聞こえてくる。
緩慢と目を開けると、近々と覗き込まれて思わず鼓動が早くなった。
ゆるりと口腔をなぞって行く舌。
同じ緩やかさで肌を滑る冷たい指先。
相貌が擦れ違って。
二つの躰が肉薄し、影が静かに重なる。
朱色の蕾に見紛う、唇が開き―――
重ね合わさった部分から、はとりの鼓動が聞こえたような気がした。
祭壇の上では、一枚の古惚けた銀貨が、他の何をも圧して輝いている。
紫呉はそっと瞼を閉じた。
戸外では静かに、霙が降り続いている――――――
雨は夜更け過ぎに
雪へと変わるだろう
Silent night, Holy night
だから、こんな夜は抱きしめて
二人だけのクリスマス・イブ
Hold night, Hearty night
Do you still believe in your God?
A Merry Christmas to you!!
|
|