
降り出したばかりの小雨が、提灯の光に泛ぶ紫呉の周囲を
靄のように包んだ。
車力の男たちが大きな掛け声もろとも、轍の音を響かせながら
通り過ぎて行く。
雨の日は取り分け廓抜けが多い。
笠や合羽を羽織って男装した遊女が、帰り客に紛れて門を出るからだ。
だから平生ならば、こんな日は番所が目を光らせているのだが――
その日、お歯黒溝に架かる刎橋()は下されていた。
「酉の市なんて――初めて。誘ってくれてありがとう。はーさん」
袖を翻して微笑むと、はとりの面差しが柔らかなものへと変わった。
凛々しい顔立ちに反し、笑うと穏やかな優しさが漂う。
その表情が好きだった。
ふと気が付くと、何時の間にか手を握られていて。
それだけで、苦界()の憂いなど忘れてしまいそうになる。
はとりと出逢う前は、ずっと籠の中に閉じ込められた鳥の如く、
外ばかり眺めていた。
自分の伴侶は書物とばかり思っていた。
だが今は――違う。
隣に立って並んで歩き、一生を添い遂げたいと思う相手が、できた。
己を殺し、もはや亡き者として生きてきた紫呉にとって、
それは生まれて初めて芽生えた感情だった。
幾度逢瀬を重ねても、はとりの優しい眼差しを見るだけで、
春先の白みがかった青空を見るような心持になった。
今日だけは、老いも若きも男も女も自由になれる特別な日。
裏門を出て参道を抜けると、そこには熊手や縁起物のお多福面、頭の芋、
黄金餅などを売る店が立ち並んでいた。
さあさあと雨が降る中、夢見心地ではとりと歩く。
路傍()には見世物が並んでおり、それを一目見ようとする民が
堵()をなしていた。
刹那。
「――紫呉……」
急に袖を牽(かれて蹌踉(よろ)めく。
風邪を引かぬように、と。
懐からはとりが取り出したのは、切山椒(きりざんしょう)だった。
口許へ差し出されたそれをパクリと銜え、咀嚼する。
仄甘くて懐かしい味が胃の腑に落ちて、紫呉は思わず顔を綻ばせた。
「美味しい。美味しいよ!はーさん……っ!」
その声に喉が塞がったような音を立てて、はとりが空気を吸った。
掠れた声が耳に届く。
「お前――平生(ふだん)は何を食べている?」
躯ごと広い胸に抱かれ、紫呉は口の中にある塊をぐっと飲み下した。
泛べていた笑みを消して心の翳りを隠すように、瞳を伏せる。
一日一食の粗食が廓の習わしだった。
「……お粥と梅干し」
消え入りそうな声でそう答えると、渋面を一層険しく歪めたはとりが嘆息した。
冴え渡った切れ長の瞳から、今にも激しいものが溢れてきそうに見える。
「――そうか……」
何かに耐えるようなそんな口調だった。
薄倖(はっこう)な生活を強いられているのは、自分だけではない。
廓は人が住む処ではなかったが、寄らば大樹の陰とはよく云ったもので。
心は失っても、廓と云う大樹の中で楼主に従って素直に脚さえ開いていれば、
夜露の当たらぬ屋根の下で暮らすことができた。
それしか生きる方法など、なかった。
喩えそれがどんなに辛くても、物乞いになるよりかはマシだった。
温い手が頬に触れる。
「年季(ねん)明けしたら、先ず飯屋に連れて行ってやる」
己を慮るその声に、思わず溢れそうになるものを幾度か目を瞬くことで
遣り過ごすと、紫呉は、はとりの腕を取った。
「本当?食べたい物、たくさんあるんだ。えっと……焼魚でしょ。
煮物に、あと天麩羅も」
「嗚呼、好きなだけ――喰え」
低く穏やかな、臓腑に沁み入るような声だった。
雨に打たれる無花果の葉が枯れたような音を立てる。
紫呉は強く、それでいて危うげな眼差しをはとりへ向けると、
くるりと番傘を廻した。
「あのね……はとり。ずっと、行かなきゃと思っていた処があるんだ」
(p.1-2より)
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