落暉
陽は傾き始めていた。
鮮やかな橙が入り乱れる雲から、厳かな光芒が放たれる。
室の主は不在だった。
静物画のような風景の中で、見慣れた白衣が堆く折り重なっている。
深い感覚の虜になりながら、紫呉はそっと衣に袖を通すと
その匂いを、くん――と嗅いだ。
知り過ぎる程に知っている馴染みのある匂い。
瞳を閉じると、己の肌を滑るはとりの手指の感触が
鮮やかに蘇って。息苦しさにひとつ声が零れた。
心に甘い蜜が広がっていく。
己の躯を抱くように両の腕を回した瞬間、
ふと感じた人の気配に、紫呉はビクリと躰を竦ませた。
「――とりさん?」
聞き覚えのある口調。
その呟きが珍しく静かだったのは、小さな戸惑いを覚えたからだろう。
それ程までに、はとりは紫呉とよく背格好が似ていた。
昏い満足感が、胸の裡に広がってゆく。
紫呉は未だ鎮まらぬ胸の動悸を押し隠すように息を吸うと、
振り返って声の主に微笑んだ。
「僕だよ。あーや」
「なんだぐれさんじゃないかっ!何をしてるんだいっ!?」
二、三度瞬きをした綾女が、ひどく陽気な声を上げた。
象牙を彫ったような色白の美貌が、ぱあっと輝く。
その高い鼻梁や形の良い口は天与のもので、彼をより
貴族的に見せていた。
「んー、はーさんの白衣、前から気になってて。
ちょっと着てみたんだけど、似合う?」
くるりと一回転して笑うと、綾女は似合うともっ、と
大きく相槌を打った。
「ボクも――とりさんに近付きたいなぁ」
発せられた語尾が、空に溶けた。
綾女は、はとりに掛け値なしに陶酔している。
彼の服を着ることで綾女の願いが叶うとは思えなかったが、
その和らいだ声音は、紫呉の胸に切なく迫った。
紅一色に染め上げる夕景の眩しさに、緩緩と双眸を細める。
つと視線を戻すと、綾女は抽斗から仕立ての良い淡色のスーツと
医療器具を引っ張り出していた。
その時である。
背後で一際、大きな怒号が上がった。
「おい!貴様ら!そこで何をしている!!」
綾女の手から、聴診器が滑り落ちる。
仁王立ちになっているはとりの厳しい眼差しに、
紫呉は思わず視線を逸らせた。
「コスプレ大会……なんちゃって」
てへ、と可愛らしく舌を出して。
滑稽な格好でおどけて見せると、躊躇なく
はとりの拳が振り下ろされて、紫呉は頬を膨らませた。
「ひどーい!童心に返った気分であーやと戯れてたのにぃ」
「ったく、油断も隙もない奴らだな」
半眼で呻くはとりの瞳には、どこか観念したような
諦めの色が宿っていた。
すかさず綾女が、口を挟む。
「どうだい、とりさんっ!ぐれさんの後ろ姿、中々だと
そう思わないかいっ?
ボクの中に在る神が、とりさんとぐれさんは、前世から
何か深い繋がりがあると――そう告げているのだよ!」
助け舟を出しているのか、面白がっているのか解らない口調。
屈託無いその声は、斜めに射し込むようになった陽に溶け、
室の空気を柔らかなものへと変えた。
はとりの深い色の瞳が紫呉を捉え、愛しそうに細められる。
何時か、複雑に絡み縺れ合う因果の糸が解ける日がくるのだろうか。
ふと視線を上げると、雲は夕闇の色を含み始めていた。
横雲に分けられた陽の下辺は、滴るような真紅に染まっている。
その落日を見ながら、間もなく宴が再開されるであろうと
紫呉は思った。
了
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