例えば、諸君!
此処に思い出、と書かれた鞄がひとつ、あったとしよう。
そう、特別な日まで絶対に開けるまいと誓った、あの鞄だ。
呪いが解けた今となっては無用の長物となってしまったが、
嘗てこの鞄は熾烈な夢と壮大なロマンに溢れていた。
すっかり薄汚れたぬいぐるみ。泥んこの靴に、埃だらけの制服。
今はもう色褪せてしまった写真。
誰から貰ったかさえ忘れてしまった破れた手紙。
嗚呼、いくら若かりし日のボクが蒼き獣だったとはいえ、
破廉恥なものはひとつも入っていない。
だから、安心したまえ。案ずることなかれさ。
うっとりと眼を瞑って囁くように。吟うように。
掌のなかで思い出を転がしながらひとつひとつ慈しむように取り出していくと、
鞄は見る見る内に軽くなっていく。
そうして、ボクが最後に鞄から取り出したものは――









草摩さん家の

 英
雄主義的兄弟事情





「如何しても――行くんデスか?」
「済まない、美音。君を置いて行かなければならないボクをどうか赦しておくれ」
「……一緒について行くのもダメ?」
「ボクだって本当は愛する君を連れて行きたい。でも耐えなければならないのだよ。
これはボクに課された使命だ!天命なのだ!」

神々の天啓は、或る日突然やってくる。
白い咽喉を反らせて拳を突き上げると、往来を行く人がギョッとした顔でボクを見た。
何か見てはいけないものを見てしまったような情けない表情で、
足早にそそくさと前を通り過ぎて行こうとする無礼者にふん、と鼻を鳴らす。
別に如何ということもない。いつもの日常。変人奇人扱いなら慣れている。
見知らぬ人間の愚かなる嘲嗤(ちょうし)に胸中でこっそり溜め息を吐くと、
ボクは美音に向き直った。

「特別な宴にご当主の参加は必須だからね。なにせこのボクが直々に出向くのだから、
感極まって泣き出してしまわないよう細心の注意を払わねばならないのだよ」

ぐっと胸を張って得意そうに指を立てれば、今にも泣き出しそうな彼女の頬が
少しだけ緩んだ。
あともうひと押し。ほとんど息が触れそうなくらい距離を縮め、顔を傾ける。

「ほうら、君は良い子だから……ちゃんと留守番もできるだろう?」

そう囁いて耳許に息を吹きかければ、美音はポッと頬を火照らせた。
幾許かの興奮と不安を含んだ瞳が熱に潤み、長い睫毛が白皙の肌に翳を落とす。
心なしか眼鏡が曇った。
別に敵地に向かうわけでもない。
相変わらずお籠りを続ける慊人を連れ出しに、本家へ行くだけの話だ。
だからどうかそんな顔をしないでおくれ。
ボクは君の純真で一途な飾り気のない笑顔が
好きなのだよ、と思っていると――く、と。強く、袖を引かれた。

「美音はいつだって、アヤ君の帰りを待っているのです」

忘れないでくださいね、と。
彼女は薔薇の(はなびら)のような唇を幽かに動かし、そうして笑んだ。
そのあまりにも愛らしい仕草に――
今直ぐ連れ去ってしまいたい衝動を如何にか堪え、返事の代わりとばかり、
独楽のように洋日傘(パラソル)を回す。

昔からどんな時でも、美音はボクにとって雨上がりの荒野に現れた
束の間の虹のような存在だった。
枯れてしまいそうな花を労わるように。
彼女が惜しみなく注いでくれる愛情は、病み疲れてしまった心に
ぽっ、と(ぬく)い何かを燈す。
ひらひらと片手を振って歩き始めたボクの背を、
樹々を渡る爽やかな風がそっと押し――
その先へ続く道を、溢れるような光が包み込んだ。









                  *









鋪道の片隅で傘を畳み、長い石段を登り終える。
久方振りの本家だと。
首を巡らせれば、門を囲むように青青と生い茂る葉が和かな風に揺れ、
その木蔭の隙間から眩い陽光がちらちらと降った。
額にじっとりと滲む汗を手巾(ハンカチ)で拭うと、その白さに少しだけ眩暈がする。

あの頃は――少年期は、この敷居を跨ぐのが憂鬱だった。
黄ばんだ襖の向こうには、髪を振り乱す狂女しかいなかった。
陳腐な母娘喧嘩を凍てた眼差しで嘲笑し、無関心を装うのが常だった。
こんな気持ちでその名を呼ぶ日が来ることになろうとは、
想像さえしていなかったけれど――

――慊人!」

機は、熟したのだ。
長年の懸念は解消され、細く開けた襖の隙間から慊人が顔を覗かせる。
やや神経質そうな細面は相変わらずだったが、
慊人は(おこり)が落ちたかのような表情でボクを(みつ)めていた。
そこに嘗てのような横柄な色は、もうない。
その唇が、永々と呪詛を連ねることも。
彼は――否、彼女は。
残りの生涯すべてをかけて、贖罪の路を歩むと決めたのだろうか。
旧友(ぐれさん)と共に。

――何か……用?」
「やぁやぁ、慊人!今日はこれからボクらのアニメ化を祝し、
とりさんを囲んでぐれさんと怠惰な宴を開こうと思っているのだが、
ボクは当主である君にも是非同席して欲しいと思っているのだよ。
準備が整ったら、君をスキップでエスコートしたいのだが、さて姫よ。
少し時間を拝借願えるかな?」
「……声をかけるべき相手を間違えている」
「それは如何いう意味だい?ボクはただ、ぐれさんの未来の伴侶である君にも
祝って欲しくて――
――違う……その役目は僕じゃない」

はっ、と息を呑む。慊人の声は驚くほど穏やかで、静かだった。
硬質にさえ見える深い色の瞳が、ひたとボクを見据える。

「由希は……まだ君からの連絡を待ってるんじゃない?僕も……そうだったから」

唇の端に(すず)しい微笑を乗せて。
ぽつりと紡がれたその言葉に――何故だか、無性に泣きたくなった。

慊人がごく普通の家庭の子として生を享けたなら、未来は何か変わっていただろうか。

女性として本来備わっていたであろう()きものと美しきもの。
だが不運なことに、彼女の置かれた環境にそれはなかった。
誰も――誰一人として、慊人に真実を告げようとはしなかった。

辛かっただろうに。苦しかっただろうに。淋しかっただろうに。
どんなに欲したとしても。どれほど望んだとしても。
決して与えられることのなかったその愛情が、慊人なりの未熟な善を歪め、
その人間的本質を悪へと傾けてしまった。
これを不幸と呼ばずして何と呼ぼう。
人間は果たして人間をしているのであろうか。
頭の片隅にぬうと現れたアウグスティヌスが、得意気に口を開く。

曰く――悪は善の欠如である、と。

ならば――慊人は最初(はじめ)からボクたちの中に居たのだろう。
ただ、気付かなかっただけで。素通りしてしまっていただけで。

(おさ)ないながらも、慊人は人として生まれ、人として育ち、
人として成熟していった。
この広い宇宙に生きとし生けるもので、役割を持たぬ存在などひとつもない。

ずっとそこにいらしたんですね、と。
透き通るくらい凛とした声音で、強く微笑んで。
独り蹲っていた慊人を遂に見出したのは、融けるほどに心優しい(あのこ)だった。
この世界で、臆病な(しろ)い孤独ほど、苦く悲惨なものはない。

ボクも弟を探すのに――見つけるのに、時間がかかってしまったけれど。
間違いだらけでも。諦めさえしなければ。
一度は()ねのけてしまった小さな手を。
もう一度掴もうと、必死に、莫迦みたいに手を伸ばしさえすれば。
何度だって、何回だって。
そう多分――人生は、幾らでもやり直せるはず――否、
やり直さなければならないのだ。
これが最後の人生を謳歌するために。
もう二度と、同じ生を繰り返さないために。
人が人で在ることは、これ程までに切なく――それ故に、尊い。

襖の縁に添えられた蒼白い手に、己の手を重ねる。
ふるり、と。慊人の肩が震えた。
人は誰しも、哀しみから恢復する力を持っている。
仮令、日陰にしか咲かない花にだって、その花にしか果たせぬ役目がある。
だからこそ――この手が(ぬく)い限り、ボクだってぐれさんと共に
慊人(このこ)を支えていきたいのだ。
今も。これからも。その先も。
生まれる前から多分ずっと、そう決めていたのだから――

永い間、ボクと慊人の間に横たわっていた永久凍土のような蟠りが、
緩々と融けてゆく。
幾許かの沈黙の後、つと手が離れて。
母屋の硝子戸に、淡い薄陽が射した。

「それから……暫く此処には来ないで欲しい。
仮令、お前が紫呉の親友であろうと――

ゆらゆらと彷徨っていた瞳が焦点を結ぶ。
細く頼りない背がピンと伸びて、揺蕩うような微苦笑が昏い室に溶けた。

「僕はやっぱり――綾女、君が苦手だ」

正面から明瞭(はっきり)と告げられ、目を瞠る。
当主(あきと)の潔癖な純粋さは、またしてもボクの心を揺り動かした。
これだから人間は面白い。
胸の裡から自然と込み上げてくる感情に頬を緩ませ、声高に宣言する。

「構わないさ!仮令どんなに――疎んじられようと、ボクはまた君に会いに行くよ!
混沌とした底深い闇の中で、それでも確かに咲き誇る初心な君を抱き締める為に!
そう、何度だってね!」
「……だから(おまえ)は嫌いなんだ」

しつこい、とうんざりしたようなその声に、ボクは今度こそ呵々(かか)と笑った。









                  *









斯くしてボクは美音の心配を余所に凡庸な世界へ還ってきたわけであるが、
それを残念に感じてしまうのは、まだボクの中に異形の精霊を統べる
神への憧憬があったからなのかもしれない。

綺麗なもの。崇高なもの。汚いもの。気味の悪いもの。

幾つもの想いを秘めて、気紛れな万華鏡は回る。
ボクの頭の中で、くるくると。
青春のほろ苦い漠とした思い出を、ほんの少しだけ乗せて。
暗闇の中で幾度も形を変え、零れるような色彩を花開かせる。

そうしてボクはいつしか忘れてしまった大切なものを、
すっかり軽くなった鞄の中から取り出すのだ。

「あれ?あーやってば……そのモゲ太のストラップ、まだ持ってたの?」
「失敬な!このボクが大切な宝を、そんな簡単に手放すわけないじゃないか!」
「でもさぁ……所々剥げてるし。色も変わっちゃってるじゃない。
もういい加減、処分したら?」
「これはあの由希が――『兄さんにあげるよ』と頬を桃色に染めて……!
それこそ処女の如く、恥じらいながらボクにくれたストラップ!
云うなれば、ボクと由希の『桃色記念日』の思い出の品なのだよ!」

グッ、と握り拳で力説しても、当のぐれさんには何処吹く風だ。
ボクにとっては価値あるものでも、ぐれさんから見たらこのストラップは
ただの塵芥(ゴミ)に過ぎない。

「そんな昔のこと……肝心の由希君は、もう忘れてるんじゃない?」
「何を云うぐれさん!全く君には失望したよ」
「……そう?」

あーやもホント変なところで頑固だよねえ、と。
くつくつと笑いながら肩を揺らすぐれさんに、何とでも云い給えと捨て台詞で返すと、
ボクは慣れ親しんだストラップを指に絡めた。

ぐれさんの――その風に逆らわない成り行き任せ(ケ・セラ・セラ)な生き方を
羨ましく思ったこともあった。
恨めしく感じたこともあった。
でもその陰で、彼が密かに苦しんでいたのも知っていた。
ぐれさんは聡い男だから、ボクの嘘に気付いている。
そうしてボクもまた――大切だからこそ、手放さなければならないものが
あるということを知っていた。

「おい、お前たち。そのくらいにしておけよ」

呆れたように息を吐いたとりさんが、この話はもう終いだと云わんばかりに
読んでいた本を閉じる。
その背後の本棚でずらりと並ぶ厳めしい専門書が、
妙な圧を以て迫ってくるような心持になって、ボクは思わず口を閉じた。

ぐれさんは相変わらず笑っている。
とりさんはもう諦念している。
どうせ散々、虚仮にされることなど解っている。
それでも――何かを始めることに遅過ぎることなど、決してない。
物語に注釈が必要なように、ボクらの人生にだって注釈が必要だ。
仮令誰が相手であろうと、対話をすることで解り合える社会はきっと、ある。
どんな絶望の中でも、こうして一歩踏み出すことにこそ意義はあるのだ。

「さて、今日という素晴らしき日を祝うため、由希に報告しなければ……!」
「ええっ!?もう止めときなって、あーや。今度こそ本当に絶縁されちゃうって。
ねぇ、はーさんからも一言――
「好きにさせておけ。どうせその内、飽きる」
「でもぉ……」

ぷうと頬を膨らませたぐれさんの肩越しで、鄙びた窓が黄昏に染まる。
白銅、紫紺、淡黄、個性豊かな色が幾つも混じり合った美しい、希望の色だ。
闇を光が照らすように、明けぬ夜など決してない。
いつだってボクの自由な世界は、こんなにも素晴らしい光で満ち溢れている。
躍起になって子どもを押し潰そうとした母親も、
今頃はあの空を見て後悔しているのだろうか。

自己満足に酔っていると揶揄されようと構わない。
どんなに惨めで不格好な姿になったとしても、護りたいものがある。
多分ボクは――由希にとって、唯一無二の英雄(ヒーロー)で在りたかったのだ。
古今東西、失敗をしなかった偉人なんていなかった。
だからボクはどんなに邪慳(じゃけん)にされようと、性懲りもなく電話をかける。

「兄さんは莫迦で無神経で愚かだけど――

なんてお決まりのように続く枕詞にめげることなく。
何度も――そう、何度だって、かけるのだ。

――でも、嫌いじゃないよ」

と、照れ隠しのような口調で。
含羞(はにか)んだように電話の向こうで笑う弟の――
そのたった一言を、聞くために。