遠い昔

双人(ふたり)は嬉しいと笑った時も

独人(ひとり)は淋しいと泣いた時も

気が付けば、何時も君が傍に居た


仮令この希いが、吹き荒ぶ風に消えてしまったとしても

仮令この想いが、降り頻る雨に溶けてしまったとしても


どうかこれから踏み出す一歩が

確かなものでありますよう













シュンライ





空は鉛色を帯びていた。
煮え切らない雲が、辛うじて透過した陽光で朦朧(ぼんやり)と発光し、
頭の上に凭れかかっている。
その所為だろうか。
往来の人たちはみな寒そうに、身を縮め、頭を屈め、帰り路を急いでいた。
一匹の野良犬が、曇天に土埃をあげながら側を駆けて行く。

刹那。

何かの啼き声が耳を掠め、紫呉は立ち止まった。
風が奏でる不協和音とは違う、もっと切実な叫び。
遠くで、何かが(こだま)している。


前にも―――似たようなことがあった。

ふと何かに脅かされたような心持がして、周囲(あたり)を見回すと
力なく道端に伏せっている犬の、微かな声が伝わったのだ。
背中の毛が逆立つような奇妙な感覚。

獣の言葉が解るのだと、得意そうに胸を反らせてそう云った時、
隣に居た母親は酷く哀しそうな表情で、静かに微笑んだ。
それが何故なのかは解らなかったが、
もう、云ってはならないような気がした。







声は、芒洋とした街の向こうから聞こえて来る。
平生ならば、きっと気にも留めなかっただろう。
このまま帰らなければ、母親も心配するに違いない。
だが、朦朧とした不安は、やがて理由なき焦燥へと姿を変えた。
徒ならぬ、緊迫感。


―――早く、早く・・・・見付けなくっちゃ。


突如、紫呉は弾かれたように駈け出した。
見慣れた情景が、何処か違う世のものに見える。
追いかければ追いかけるほど、その声は遠く、細くなった。
途中、泥濘に足を取られ幾度も転んだが、
紫呉は足を止めなかった。
今走るのを止めてしまえば大切なものを見失ってしまう―――そんな気がした。




朽ちた木の陰。

荒廃した高い石垣の間。

苔むした緑衣を纏った墓石の裏。

叢を掻き分け、藪を掻い潜って、まるで落し物でも探すかのように、
その声の主を探す。


鳥居のように立っている神木の中央を通り抜けると
声は一層、明瞭(はっきり)となった。

路地を曲がり、石甃を行き尽すと、古びた境内に辿り着く。

錆びた蝶番は、壊れていて。
紫呉は呼吸を整えると、蔵の中を覗き込んだ。
まるで別世界のように閉ざされた空間。
必死で目を凝らすと、辛うじて物の形を透かしてみることが出来る。
息を潜め、耳を欹てていると。
薄闇の底から、饐えた埃の匂いに雑じって聞こえてくるのは―――
仔犬の啼き声。


―――嗚呼。

寒かったんだね、苦しかったんだね、と。
濡れそぼって凍えた犬を、両の手でそっと抱きしめる。
犬はクウン、と鼻を鳴らし、小刻みに痙攣すると、
それきり動かなくなった。








それは薄い皮膜の向こうの―――幻のような光景。










不意に。

空が、唸った。

薄紫色の稲妻が走り、凄まじい雷鳴が轟いたと思うと。
一瞬だけ世界の色が反転し、真っ白になって。
目に焼きついた仔犬の残像が、薄闇に溶けた。

咽喉がひりひりと焼けるように痛い。
全身の筋肉が弛緩し、感覚という感覚が失せて行く。
足許が崩れ、昏い淵の底へと落とされたような錯覚。
天蓋が抜けたような大粒の雨が、ばらばらと降り注いだ。

帰らなければ、と。頭では解っているのに。
痺れた足が動かない。
吹き荒ぶ風は肌を弄り、どうどうと勢いを増した瀑のような雨は、
徐々に半身を黒く、染めてゆく。



その時―――


がさり、と云う微かな振動が鼓膜(みみ)に届いた。
こんな処へ誰も来る筈はないと、
そんなことは疾うに承知していると云うのに。
願わずにはいられなかった。
仮令、そこに誰も居なかったとしても、誰かが自分を見付けてくれるのを、
願わずにはいられなかったのだ。
伏せていた面を上げ、緩慢(ゆっくり)と振り返ると
紫呉は煙る視界の向こうに視線を据えて、瞳を細めた。


雨脚を突いて此方に歩いて来る人影が、徐々に鮮明になってゆく。
紫呉は(くろ)い瞳を幾度も瞬かせ、その影を接接(まじまじ)凝眸(みつめ)た。
再び走った閃光が、周囲を照らし出す。
鷹のように鋭く、吸い込まれそうなほどに深く蒼い瞳。
細筆ですっと描いたような美しい眉。秀でた鼻梁。
稀に見る凛々しい顔立ちの美少年である。
歳の頃は自分と然程変わらないだろう。
一向に衰える気色のない雨の中で、立ち竦んでいると、
それまで深く傾いていた傘が、頭の上にすっと差し出されて。
遮るものを失った少年の肩に、強かな雨が染み込み始めた。
濡れた土の匂いや枯草の匂いが、冷ややかに胸の裡に流れ込んで来る。


「入らないのか?」

余裕のある落ち着いた声音は、雨の膜を通して紫呉の耳に届いた。
途端、ぴんと張り詰めた糸のようなものが、ふっつりと切れる。

「・・・・・・っ」

待っていたのだと。ずっと、待っていたのだと。
色を失くした唇が戦慄いた。胸が千切れるように、痛い。
待ち焦がれていた人の温もりを感じた瞬間、
堪えていた感情が堰を切ったように溢れ出す。
何とか詰まった声を振り絞って出そうとしたが、
涙は次から次へとひとりでに零れ出て。
紫呉は、泣いた。
その少年が如何して自分の傍に居てくれるのか、
何故泣いているのかさえも解らないまま、涙を流し続けた。

継ぎ目を知らぬ雨垂れは、徐々に躰の体温を奪ってゆく。






「・・・勝手にしろ」

程なくして、少年は射るような視線を寄越すと背を向けた。
怒らせてしまったのだろうか。
頭の中に滾滾と湧いて来るのは、喩えようもないほどの不安と恐怖。
少年の輪郭が朧になって、闇に溶けて―――
その背が、視界の中で滲んでゆく。
首筋まで流れ落ちた泪は、雨と雑じって心を濡らした。
奥歯が鳴って、背中が脈打ち、独りは怕いと鼓動が伝える。
こんなことで泣いてしまう自分が如何しようもなく、哀しくて。
口惜しくて。情けなくて。

「ま、って・・・行かなっ・・・い・・・でっ。一人・・・にっ、しない・・・でっ」

堪え難いほど切ない想いを、どれほど訴えようとしても、
しゃっくりの所為で上手く言葉にならない。
襯衣(シャツ)は疾うに濡れ尽くして、染み込んだ水は氷のように冷たく、
気持ち悪かったが、それでも紫呉は少年を追うために覚束ない足取りで走った。
(せま)ってくるのは、満目の樹梢。
幾条もの細い銀の糸が、斜めに走る。

やがて茫々たる薄墨色の世界の中から、少年はふうと現れた。


幻かもしれない。触れたら、消えてしまうかもしれない。
それでも、今は―――
紫呉はその少年の袖口に、救いを求めるかのようにしがみついた。

空虚なまでに凍て付いた心が、緩緩と溶けてゆく。
少年は途方に暮れたような表情で濡れた髪に手を置くと、
自分の睫涙に濡れた目尻をそっと指で拭ってくれた。
これまでに感じたこともないような幸福感(しあわせ)が、
躰中にじわりじわりと広がっていく。
そのまま歩き出そうとした瞬間、右足に激痛が走って、
微かな呻き声が、口の端から零れた。
心臓の鼓動と呼応するような周期的な痛みに、思わず顔を歪める。
転んだ際、足首を捻ったのだろうか。
これまでそれ程痛みを感じなかったのは、
極度に緊張していた所為なのかもしれない。
彼は自分の異変に気付いたようだった。
すうと自分の隣まで移動して屈むと、
僅かに熱を持っている足首に触れて、溜め息を吐いた。


「・・・負ぶされ」

紫呉は背を向け、片膝をついた少年を見て瞠目した。
驚きつつも、大丈夫だと精一杯虚勢を張って(かぶり)を振る。
だが、早くしろと急かされて―――
暫らく躊躇っていた紫呉は、怖ず怖ずとその首に手を廻した。
ずっと、欲しかった人の温もり。初めてだった。
耳を付けるようにして、顔を伏せる。
寒気に晒され冷たくなっていた頬に、触れた背が温かい。
その背に揺られていると、不安も恐れも鎮まっていくような心持がした。
背を通して伝わる互いの温もりは、頑なだった心を
少しずつ解きほぐしてゆく。



「お前の所為じゃない」

どの位の時を経たのか、顔を伏せていた背中に声が響いた。
降る雨の音より強く、鼓動の音が聞こえる。
ぱしゃり、と水が撥ねた。


―――その犬が死んだのは、お前の所為じゃない」

だからもう泣くなと、振り向いてそう云った少年の慰撫するような声に、
乾きかけていた紫呉の頬を、また一条の涙が伝い落ちた。
胸に沁み入るほどの優しい声。

柔らかく降り注ぐ雨は、そっと労わるように周囲を包み込んだ。
細く零れ落ちた嗚咽が、蒼い闇に吸い込まれるようにして消えてゆく。
椿に落ちた雨の雫は紅色を透かし、ほんのりと光った。




























                         *

































遠くで春雷の鳴る音がした。
緩緩と沈んでいた夢の底から浮上するかのように薄らと瞼を開ける。
紫呉はそれまで凭れ掛かっていた壁から()を起こすと、
まだ醒めきっていない眼で周囲の様子を探った。
空は闇に寝食され、雲は驚くほどの速さで風に流されて行く。
耳の底にこびりついているのは、仰げば尊しの旋律(メロディー)のみ。
人の気配が遠退いた校舎は、先刻までの喧騒が嘘のように静まり返っていて。
鈍色(にびいろ)の空から零れた一粒の水滴は、
やがて視界をも遮る豪雨へと変わった。
如何やら自分は、暫く過去の記憶の中を漂っていたらしい。



「ついてないなぁ、本当に・・・」

叩き付けるような雨の撥ね返りの所為で、しとどに濡れてしまった制服を
恨めしく思いながら、紫呉は独りごちた。
この学舎を見るのも、今日で最後になるだろう。
雷鳴が轟く毎に、雨はいよいよ白くなってゆく。
だらだらと過去を反芻していても仕方がないと云うのに、
底なし沼に足を沈めていくような焦燥は、嫌な記憶を蘇らせた。
彼は、まだ怒っているのだろうか。
後悔は尽きることなく、靄のような不安は水輪のように広がってゆく。






―――医大へ行こうと、思っている。


凛としたその声を聞いた時。
鋭い(いかづち)が脳天を突き抜けたような衝撃を受けた。
己の瞳に映った彼の背には、誰にも譲れぬ意志の強靭さがあった。
胸に出来た蟠りを吐き出すかのように駄目だと叫んだあの時、
淋しげに翳った彼の横顔は、冷たい本家の空気を思い出させた。
否、それは自分にとって都合の良い解釈だったのかもしれない。
高校へ入学した当時、同じくらいだった背は何時の間にか抜かれていて。
肩も、声も、指も、想念(おもい)さえも――全て成長した彼を見て、
歳月の重さを感じずにはいられなかったのだ。
何時か自分を置いて、手の届かない処へ行ってしまいそうな予感。


変わってくれるなと―――


如何して一言だけ、正直な言葉を伝えられなかったのだろう。
必要以上に神経を逆立て、八つ当りをした自分は莫迦だ。
天から零れる雫を手の平で受け止め、遣る瀬無い溜め息をひとつ漏らす。
休むことなく滴り落ちる単調な雨の白玉は、
紫呉の心情(きもち)閑寂(しん)とさせた。


その時である。
静寂の破片を握り締めながら佇んでいた紫呉の胸に、真っ直ぐな声が突き刺さった。
雨音に掻き消されそうな細い声は、煤けた建物の辺りから聞こえてくる。
儚い幻聴のような声は、余韻だけが鮮やかに強い。
斜めに叩きつける天滴の中、紫呉は黒雲から閃く稲妻の如き勢いで、
雨の中へと飛び出した。

躰中の神経を研ぎ澄ませ、何かに憑かれたように聞こえる筈のない声を追う。
見えない糸に引き寄せられるかのように走っていると、やがて校舎も樹木も
すっかり形を潜め、蒲鉾型の小汚い倉庫が現れた。
幽かな気配は、壁の剥がれかかった倉庫の下から伝わってくる。
きっと床下に入り込んで、出られなくなってしまったのだろう。
蠕動する闇の中、二つの眸で震える生き物の姿を見付け出そうとしゃがみ込む。

湿った土の匂い。
冷えた空間は、墨でも零したように頼りなかった。
限られた視界の中、瞬きすら惜しんで気配を探る。
眼が慣れて来ると、霞んでいた闇は徐々に円い瞳へ、濡れた鼻へと変化した。
指先を向けて舌を鳴らす。
すると仔犬はそれに気付いたのか、ころころと駆けて来て、
嬉しそうに自分の膝に前足を掛けた。
心臓が跳ねる。
前髪から、雨の雫がぽたりと垂れた。

「もう、大丈夫だよ」

吐息のような声で、そう囁く。
制服は土に塗れて所々綻んでいたが、吹きつける風は幾分か和らいでいて。
紫呉はぎこちない挙措で仔犬を抱き締めると、そっと顔を寄せた。
ざらりとした舌の感触。
愛嬌のある円い眼がくるりと動く。
雨に濡れた毛皮は強ついていて、とても冷たかったけれど、
今はただ、この優しい波動にずっと躰を浸していたいような安堵感があった。
あの時と同じ、温かさ。
僅かに身動ぎをする腕の中の温もりが、自分の血肉を頒けた分身のように愛おしい。
生きているのだと、胸の中で声が響く。



―――今度は、救えた。


そう思った拍子に目が潤んで。
紫呉は溢れそうになるものを、幾度か瞬きすることで遣り過すと
瞳を閉じた。
目の奥が、酷く熱い。
閉じた瞼の裏側に映るのは、幼い頃、少年と二人で
死んだ犬を弔うために立てた二本の卒塔婆。

ぽたり、と心に落ちた一粒の滴が波紋を描いて―――
水面に広がる輪が、やがて又静かに水に還るかのように、
幾重にも浮かんでは消えてゆく。



如何して(うしろ)ばかり見ていたのだろう。
変わっていくものに怯えるのではなく。
燦然とした世界に入り込めぬものを感じ取って、
自ら背を向けてしまうのではなく。
変わって良いのだと。
変えていけるものもあるのだと。
何故、気付かなかったのだろう。
過去(こしかた)よりも、未来(ゆくすえ)よりも大切な現在(もの)は、
直ぐ目の前に在ったのだ。

想いは何の前触れもなく迸るように溢れ、如何しようもないほどの激しい感情が、
忽ち胸の裡に膨れ上がる。

あの人に、逢いたい。
逢って、穏やかな声を聞きたい。
その手に、指先に触れたい。
自分は此処に居るのだと、全身で伝えたい。
ずっとその隣で、肩を並べて歩いて行きたいのだと、
(こいねが)うような気持ちで、紫呉は顔を上げた。
もう、頬に流れるものは無い。



周囲は驚くほど静かだった。
それまでの雷雨が嘘のように、今はただ微かに降り残った雨が、
煙るように細い線を描いている。
音も無く降り注ぐ暖かな雨と、昨日よりもほんの少し膨らんだ桜の蕾が、
ひとつの季節の移ろいを静かに告げた。
無彩の景色の中、視界に映る傘だけが、
鮮やかな色彩をくるりくるりと回転させている。


やがて朧な人影が、幻のように浮かび上がった。
つと視線を巡らすと、傘を畳み、ゆっくりとした動作で
此方を振り返ったその人の瞳に、一瞬だけ、光が過ぎった。
水面の照り返しにも似た、透明で柔らかな、懐かしい光。
もう間違えようがなかった。
その逞しさ、勁さに、少しだけ瞳を眇める。

あの時、自分を救ってくれた少年は、もう少年ではないけれど。
昔日(せきじつ)の面影はその青年の顔に、確かに残っていた。
ずっと恋焦がれていた人は、目の前に居る。
一歩。また一歩。
青年との距離が縮まって行く。
陽の光を滲ませた雲は、そこだけ薄く刷毛を刷いたようで。
灰色の雲は斑になって散っていたが、空には明るさが戻り始めていた。

それは喩えるなら―――夜明けのような白さ。

優しい香りに包まれながら、緩やかに春が()けてゆく。


―――はーさん・・・っ!!」


未来永劫、共に春夏秋冬を越えていきたいのだと、
有らん限りの想いを込めて叫ぶと―――
流れてきた春風に背中を押されるかのように、
迷うことなく、紫呉は地を蹴った。