七夕
足許に落ちる濃い影が、夏が来たことを僕に告げた。
紫雲を侍らせた遠くの東の空は仄かに蒼く、
周囲には、空に焼け残った僅かな白光の残滓が漂っている。
風に乗って耳に届くのは遠くで響く太鼓の音と、豪華絢爛な笹飾りを持って
夕空に飛び交う蝙蝠の群を追い廻しながら遊び、戯れる子どもたちの鄙びた合唱。
「ささのは さらさら のきばに ゆれる……」
多くの日々を無為に過ごしている僕はすっかり忘れていたが、
そう云えば今日は七夕だった。
天の川を挟んで煌く牽牛、織女の恋物語を信じているわけではないが、
彼らの逢瀬を疑うことなく受け入れることのできる子どもたちの純真さが
同時に、羨ましいと思う。
笑い声を上げて、円を描きながら走り過ぎて行く子どもたちの後に吹き起こったのは、
土煙を微かに含んだ熱っぽい風。
彼らの持っていた笹の一部が、自分の肩を掠めるようにして
数歩先の道端にパサリと落ちる。
僕はそれを拾い上げながら、生まれて初めて書いた短冊の願い事を思い出していた。
感じるのは、内部から徐々に死んで行くような嫌な感覚。
夕に萎れる朝顔のような儚さ。
そうして浮かび上がったひとつの事実は、
自分の少年時代に深い哀憐を寄せるに充分なものだった。
口の端から零れたのは、己の運命に対する自虐的な嘲笑。
「――呪いが、解けますように」
これがまだ年端も行かぬ子どもの希いとは、
なんと哀しいことだろう。淋しいことだろう。
今となってはそれほど苦にならないこの呪いも、あの頃は足枷だった。
遣る瀬無い気持ちに身を浸したまま生きる暗澹たる未来に希望など、ない。
どどん、と一際大きな太鼓の音が鳴った。
何処かで祭りの練習でもしているのだろうか。
気がつくと、何時の間にか母屋を通り過ぎて
はとりの家まで来ていた。
僅かな気配が破られ、まるで幻を見ているかのように
障子の桟を崩すようにして、淡い人の影が浮かぶ。
「如何した?紫呉――」
何か用か、と云うはとりの穏やかな低い声は、
僕を重苦しい過去から現実に引き戻した。
その自分を見下ろす眸の奥があまりにも深く、優しくて。
僕は暫し逡巡した後、何時ものように微笑った。
「これ…さっき、そこで子どもが落としていったのを拾ったんだ。
ねぇ、はーさん?僕たちも願い事、書かない?昔みたいにさ」
呟いた声音が、立ち罩める暮色の中に溶け行くように消えた。
吸う息も吐く息も止めるようにして恐る恐るはとりを見ると
彼は緩慢な仕草で手元の笹に視線を落とした。
「……いいだろう。付き合ってやる」
高い鼻梁の影が、少しだけ揺れた。きっと笑っているのだ。
何時まで経っても子どもだと切れ長の瞳が眇められる。
叶わぬ願掛けを、幾棹かの竹笹に託したこともあった。
先刻、そんな自分を愚かだと嗤った。
だが――
呪いが自分たちに齎したものは、決して傷ばかりではない。
重ねた手からじんわりと伝わるのは、確かな幸福。
ぬくい。
彼と出逢って、苦しみが引き立てる愛情もあると云うことを知った。
何処か色めき立つものを感じながら、この溢れ出る恋情を何とかして伝えたいと
精一杯両手を伸ばし、はとりの首筋に強く縋る。
刹那、雷を通されたような痺れが、背中から足の指先まで走り抜けた。
りん、と風鈴が鳴る。
ひっそりとした神事を終えた僕たちは、短冊を笹に吊るすと
星明りだけを頼りに、夜影の深くおりた戸外へと繰り出した。
闇を踏む足音に、もう乱れはない。
一瞬の間隙の後。
俄かに吹いた一陣の風に、短冊が翻った。
砂子の舞った和紙に流れる墨字が重なったことを、二人はまだ知らない――
「君とずっと一緒に居られますように」
了
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