絶えず湧き上がる湯煙は室を埋め尽くし、
世界を濃やかに揺らした。

さあさあと浴槽の縁から溢れる湯の音を聞きながら
そう云えば、と。
以前、つい風呂で読書に耽って
逆上せたことがあったのを思い出す。

ふわりと海月のように魂が浮いて。
暫く湯の流れに身を預けていると
輪郭が崩れて溶け出し、視界が暈けた色彩の塊に変容した。
意志を持たぬ躰が、透き通った湯に同化してゆく。

霞の国から戻ってきた僕の肩を掴んだのは
温かい大きなはとりの手。
その包み込むような深い双眸を見た時、
こんな愚かな己でも心配してくれるものかと
夢現ながらに思ったものだ。

手拭が落ちて髪の毛が湯気を帯び、
しっとりと重くなるのを感じながら
僕はそろりと立ち上がった。
ばしゃりと水音がして、
火照った躰から湯気が立ち上る。

手に取ったのは着慣れた衣ではない。
高い場所から夜景が見たい、と。
ある日、突然思い立ったように口にした僕の言葉を
そのまま素直に受け入れてくれるはとりは
矢張り優しいのだと、声には出さず微笑する。
素肌にバスローブを羽織るだけで、優雅な気分になるから不思議だ。
平生とは異なるけれども、二人にとっては尊い日常。

「お風呂、先にいただいたよ」

不慣れな室の間取りに違和感を覚えながら
後ろ手で戸を閉めると、はとりは既にひとり手酌で
杯を空けていた。
思わず、小さな溜め息が零れる。
その酒は安いが、度数はかなり強い。

「酔ってるの?」

「悪いか。俺だって時には」

飲むことくらいあるさ、と憮然とした面持で答えた
はとりは次の瞬間、急に噎せた。

「寝酒は癖になるよ。そんな風になるまで飲むなんて…君らしくないね」

すとん、と彼の隣に腰を下ろすと
はとりはグラスに酒を注いで僕に差し出した。
一気に仰ぐと、甘い芳醇な香りが喉を滑り落ち
胃の中へと広がってゆく。
酒気に煽られ、気分がじわりじわりと高揚していくのを感じながら
僕は立ち上がって、傍にあったカーテンを引いた。

途端、膝から下が斜めに月の光を浴びる。
無数の葉の影が揺れながらバスローブに落ちて
そのまま硝子張りの窓を開けると、僕はベランダへ足を踏み出した。
夜の空気が自分を迎え、胸の裡へ植物や土の仄かな香りが
流れ込んでくる。

刹那。

バルコニーの柵に手をかけ、ひらりと身をひねると
僕は逡巡の暇もなく柵の上に立った。
下では無限暗闇の淵が口を開けて待っているというのに
不思議と高さは気にならない。
ふわりと髪が風に煽られ、激しく靡く。

それは――焦がれていた果てしない夜景。
ぞくりと肌が粟立った。

「降りろ!!危ないぞ」

「…君も、来てご覧?月が綺麗だ」

手を伸ばし、すっかり蒼褪めたはとりに向かって囁く。
彼は諦めたように僕の手を取った。

「空が飛べたら素敵だなぁ、って思わない?
ほら。例えば、はーさんと二人で空中散歩とか」

「何を莫迦なことを…」

街は夜の底に、無数の灯を点している。
白く冴え渡った月は蒼い光を投げ掛け、
二つの影を長く伸ばした。
後ろ肩に重なったはとりの鼓動はひどく静かで。
遠くの海は、瞬く星を写し込むように輝きを放っていた。

「お前の所為で、すっかり酔いが醒めた」

骨に喰い込むようなはとりの指の強さが、
鈍い痛みとなって疼く。

痛い、と振り返って訴える己の声が
喉に貼り付くように上擦り、掠れた。

残酷な君は、朝になれば今日のことなど
総て忘れてしまうだろうから。
僕はそっと眸を細めると、一瞬の煌きを楽しむかのように
はとりの首筋に朱い印を刻んだ。