歪んだ扉
篠突くような雨は、瞬く間に街道を黒く染め、泥濘を作り出した。 広大な敷地に聳え立つ、高層ビルの最上階の一室。 肚の探り合いだけの重役会議を終えたはとりは、一つ溜め息を吐くと 椅子から立ち上がった。終業時刻は、疾うに過ぎている。 降り注ぐ銀色の矢は、ビルの窓硝子を強かに叩くと、そのまま、アスファルトへと 突き刺さった。雨は一向に、止む気配がない。 御自宅まで御送りしましょう、と云う部下の申し出を、片手だけで拒絶すると、 はとりはアンティークなベンツに乗り込んだ。 八十二年式のメルセデス・ベンツ。 キーを差し込み、スターターを回すと、勢い良くエンジンがかかった。 クラッチを踏み、左ハンドルの為、右手でギアを操作する。 アクセルをさらに踏み込むと、エンジンは低いうねりを上げた。 忽ち、部下の姿が見えなくなる。 車のワイパーが忙しなく動くフロントガラスを見つめながら、はとりは 器用に左手だけで煙草を取り出し、それに火を点けた。 煙を吐き出しながら、思う。 企業と云うのは、パブリックだ。それは、決してパーソナルではない。在ってはならない。 社長だから偉いとか、そんなことは、恐らく関係ないのだ。 社長であれ、部長であれ、課長であれ、自分たちは誇りを持って、 その職務を遂行することこそが大切なのだ。 だが――――所詮、それは単なる理想論に過ぎないのかもしれない。 「夢や希望を実現させるには、奇麗事だけでは無理なのだよ、はとり――――」 十年前、諦めるような口調でそう呟いた父の言葉が、胸に蘇る。 当時、自分はまだ「子供」だった。しかし、それが理解出来なかった訳ではない。 納得が行かなかったのだ。 あの日を境に、父はすっかり変わってしまった。 詰まる所、父は小市民的な生き方に、満足出来なかったのかもしれない。 何かと面倒見が良く、情に厚かった父は、あの日以来、目的の為には手段を選ばない 独裁的な権力を手に入れようとするワンマン社長になった。 己の私利私欲の為なら何でもして、競合しようとする会社を容赦なく潰しにかかる父を、 彼のヒトラーの如き社長だった―――と、そう評する人も居た。 否定は出来ない。 そしてそれは、自分とて例外ではないのだ。 五年前、心臓発作で父が急死して以来、はとりは父の事業を受け継いで社長に就任した。 蹴落されたくない、利用されたくない、そんな思いは絶えずはとりの心の中にも 渦巻いていて、自分は何時、父のようになっても怪訝しくない立場に居るのだ、 と改めて思い知らされた。 大学を出たばかりの青二才に何が出来るという風評の中、 それでも今日まで何とかやって来れたのは、有能な秘書を始めとする 従業員の支えがあったからに他ならない。 前方を走っているのは、メルセデス・マイバッハ。 国内では数少ない車種で、今、自分が乗っているそれとは比べモノにならない程の 超高級車である。 重役の中には、未だに「リムジン」での送迎しか知らない者も居た。 元気な老人たちの醜い争いは、父の死後も相変わらず無くならなかったが、 それでも、はとりにはこの腐敗体質を一掃しなければならない責務があった。 その為にはまず、無駄な経費は極力抑え、利益を還元しなければならないのだが―――― どうやらそれが実現されるまでには、もう少し時間が必要らしい。 交差点の信号が赤へと変わり、はとりは車を停めた。 駅前の横断歩道を、色取り取りの傘が埋め尽くす。 緩々と上下しながら流れる傘を眺めながら、はとりは口の端に銜えていた煙草の灰が 今にもポトリと落ちそうになっているのに気付いた。 指先でそれを捕え、アシュトレーへと運ぶ。 人差し指の先でトン、と軽く叩くと、伸びた煙草の灰は簡単に崩れた。 フロントガラスに打ち付ける雨音が、車内の静寂を一層際立たせる。 ラジオのスイッチを入れると、電波の調子が悪いのか、ノイズの隙間からギターの 軽快なロックンロールが流れ出た。八ビートのリズムが車内に響き渡る。 周波数を合わせると、途切れ途切れのDJの声や、名前も知らないオーケストラ、 少し古めかしい曲などが流れて、はとりは直ぐにスイッチを切った。 信号が青に変わったのを確認して、車を発進させる。 刹那―――― はとりの視界に、黒い影が飛び込んだ。 クラクションを鳴らす暇もなく、一気にブレーキを踏み貫く。 "キキキキィ――――――ッ" 「―――っ!!!」 耳を劈くような音が、辺りに響き―――― 思考力がバラバラになりそうな騒音が、一瞬で消えた。 全身の神経を一点に集中させ、無我夢中で、ハンドルを切る。 その拍子に、オーディオのリモコンがダッシュボードを滑って、落ちた。 車体は右に大きくスライドして、脇を走っていた車が、滑るように近付いて来た。 車窓を、景色だけがスローモーションの状態で、次々に流れていく。 フロントガラスが、空中に吸い込まれていくような奇妙な感覚がした。 シートベルトがなければ、叩き付けられていたかもしれない。 冷たい、厭な汗が、背中を伝った。 逸る気持ちを堪えながら、ブレーキを踏んで、車を道の端へと寄せる。 キリ、と奥歯を噛むと、はとりは重たいドアを開けて、外へと滑り出た。 無事で居てくれ――― 滝のような雨が、視界を歪ませる中で、はとりは颯爽と佇む一人の男の姿を見た。 飛び出してきたその男は、如何やら、間一髪の所で無事だったらしい。 大勢の野次馬が見守る中、蹌踉めいて転びそうになりながらも、 はとりは彼の元へと駆け寄る。 轢いてみろと云わんばかりに、車の前に飛び出して来た男は、時代錯誤とも取れる 着流し姿だった。 漆黒の髪は少し長めで、それが静かで穏やかな雰囲気を醸し出している。 切れ長の二重の目許は涼しげで、知的なイメージに反して、その微笑みは柔らかかった。 額には雨の所為で濡れた髪が張り付いており、頬には雫が滴っている。 大丈夫か――――そう声を掛けようとした瞬間、強く腕を掴まれた。 「―――三万円で、如何・・・?」 一瞬、自分の耳を疑う。だが、澄んだ純黒の瞳は、自分を捕えて離さない。 はとりは呆然と、彼を凝眸た。冷たい水滴が、額に当たる。 「・・・僕を、買ってみない?」 躊躇っていると、正面から自分を見据えていた男の唇が、再び動いた。 頭の芯が霞んで、声が出ない。 金縛りにでも合ったかのように、躰が硬直した。 それなのに―――何故か、惹き付けられる。 男の前髪から垂れた雫は、唇に落ちて、その艶かしさに、思わず見蕩れそうになった。 思わず、視線を逸らす。 「生憎だが、間に合ってる」 突き放すような口調でそう答えると、はとりは踵を返した。 この調子ならば、恐らく問題ないだろう。 瞬間――― 背後で、パシャリと水音がした。 黒ずんだ灰色の空からは、間断無く雨が降り注いでいるが、 それは明らかに雨の音ではない。妙な違和感を覚えて、振り返る。 果敢なげな微笑を浮かべていたその男は、唐突に、黒く濡れたアスファルトに膝をついた。 心臓が跳ねる。 「―――っ、おい!!」 咄嗟に腕を伸ばして、崩れ落ちそうになっている躰を支える。 その手は酷く冷たく、掴んだ着物の下の肌は、火のように熱かった。 吐息が荒い。血の気のない唇は、微かに震えていた。 一体、何時から雨の中に居たのだろう。 このまま自分が帰れば、彼はまた別の客を探すのだろうか。 躰を震わせながら、たった独りで雨の中を――――― はとりの脳裏を、冷たい雨に打たれながら、立ち尽くしている男の姿が、過った。 溜め息混じりの口調で、呟く。 「―――車に、乗れ」 限りなく線の細い微笑の男が、驚いたように顔を上げた。 その顔色は至極、蒼褪めていて――― はとりは、ほっそりとした黒衣の肢体を抱き上げる。 同時に、けたたましいクラクションを鳴らして一台のトラックが、 疾風の如く通り過ぎて行った。その余波で、濡れた髪が宙に舞う。 買うつもりは、無かった。 何故彼を拾ったのかと今此処で問われても、多分、自分は答えることが出来ないだろう。 それでも、何故か、放って置いてはならない気がしたのだ。 殆ど意識を失いかけているその躰は、想像以上に、軽く――― それに驚きつつも、はとりは後部座席に寝かせるように、男を乗せた。 車の外は、まるで磨り硝子を通して見るように、薄ぼんやりとしている。 雨の景色も手伝ってか、見慣れた筈の風景は、やけに新鮮だった。 今一つ、スッキリとしない感情を払拭するかのように、 はとりは再び、車のアクセルを強く踏み込む。 天蓋が抜けたような土砂降りの雨の中、闇は、飛沫を上げて飛び散った。 * 瞼を開いていても、閉じていても、この瞳に映る幻影は、あの日の一瞬。 蟀谷がズキズキと疼く。 絶望は胸を塞ぎ、苦くて熱い息の塊が、グッと鳩尾から喉の辺りまで迫り上がってきて 紫呉は思わず、手で口元を押さえた。 一瞬、猛烈な吐き気で、気が遠くなりかける。 涙は―――そう、流れていたのかもしれない。 十年前のあの日、ただ泣きたいと、泣いて誰かに縋りたいと、心の中でそう叫んで いたのは確かだった。 死んだような風景の中、紫呉は傘も持たずに、ただ只管、街の中を彷徨い続けた。 躰中に纏わりつく雨が、少しずつ、自分の体温を奪ってゆく。重い。 仄白く曇る雨のフィルターを通しただけで、如何してこんなにも世界は 変わってしまうのだろう。擦れ違う度にぶつかる、色褪せた傘。 何時だって世界は生命の気配に溢れているというのに―――― モノクロームの景色は、死んだように眼前に横たわっていた。 瞬間――― 車道を疾駆する一台のベンツが視界に飛び込んで、紫呉は無意識にその車を追い駆けた。 必死で。これが、この瞬間が最後なのだと、何故か奇妙な確信を抱いていた。 足を止めれば、全てが終ってしまう。だから、紫呉は走り続けた。 車が信号で停止する。機会はたった一度だけ。 信号が変わって、車が一斉に走り始めたその瞬間を狙って、紫呉は前に踊り出た。 自分は大丈夫なのだと。 震える足に、そう云い聞かせながら。 * 「―――着いたぞ」 自分は何時の間に、眠っていたのだろう。 低いけれどよく通るその声に、何とか半身だけを起こす。 心配そうに自分の顔を覗き込む、澄んだ紫暗の瞳に、紫呉は作り笑いを浮かべながら 大丈夫だと答えて立ち上がった。 エントランスは御影石を敷き詰めた豪華なものだった。 最新のオートロック・システムが採用された、瀟洒で、 有機質な高級マンション。ノスタルジックなレンガ風の造りを基調としている。 雨と共に、低く唸る風が、紫呉の黒髪を弄り、黒衣の裾をはためかせて通り過ぎた。 指紋照合式の玄関を抜けると、見事に調度品が配置され、 計算され尽くしたロビーが目の前に広がった。 床は大理石で出来ており、それも傷一つ付いていないことから 手入れの良さを伺うことが出来る。 温度調整と空調は完璧なのだろう。 暖かいのに、暖房器具によるあの粗悪な息苦しさは、微塵も感じられない。 エレベーターで最上階まで昇る。 ガラス張りのそのエレベーターは、外界を眺め渡すことが出来るよう設計されていた。 階数を上げる度に、より広く、より遠くまで見渡せるようになっている。 そこから見えるイルミネーションに夢中になっていると、藪睨みと云っても 差し支えのない表情で名刺を渡されて、紫呉は困ったような笑みを浮かべた。 誰何の視線に、気付かなかった訳ではない。 結局、名前くらいなら教えても大丈夫だろうと、紫呉は慎重に口を開いた。 自分が名前を云ったその瞬間、はとりの頬が緩むのが解る。 「紫呉―――・・・?」 瞬間、切ない程に、自分の肩が震えた。 穏やかな、それでいて、酷く安心する声。 名前を呼ばれるのは、厭ではない。しかし――― 真逆、気付いた訳ではないだろう。 紫呉は平常心を取り戻すと、はとりから僅かに離れた。 彼が自分の名前を口の中で繰り返している間に、名刺に視線を戻す。 草摩はとり―――忘れようと思っても、忘れることの出来ない名前。 はとりの位置から死角になっていることを確認すると、紫呉は後ろ手で その小さな名刺をクシャリ、と握り潰した。 はとりが慣れた手付でドアの横に埋め込まれている機械に手をつくと、 機械は瞬時に指紋を照合し、鍵を開けた。 紫呉が部屋に入ると自然に照明が点き、適温装置も作動し始める。 目立たないが、薄い緑の観葉植物が窓や壁、通路などの至る所に置かれていた。 壁は染み一つない美しい白に彩られ、高さのある天井にはシャンデリアが下がっており、 それがより一層、高級感を引き出している。 畳に換算すれば、何十畳はあろうかという広いリビング。 フローリングの上には部厚い絨毯が敷かれていて、歩く度に沈み込み、 足を取られそうになった。 皺一つない真っ白なシーツが張られているベッドは、酷く生活感のないものに見える。 誰もが羨む、高級マンションの最上階。 しかし、そのどれもが紫呉の興味の対象には、成り得なかった。 シャワーを浴びるように促され、紫呉は濡れた着物を脱ぐと、 硝子張りのシャワールームの戸を開ける。 ノズルを捻って湯を出すと、シャワーが勢いよく白いタイルに跳ねた。 浴室が湯気で濛々となり、シャワーの音が、遠くで降っている雨の音に変わる。 十分に温まった後、湯気の立つシャワールームから出て―――― 紫呉はフと鏡に映る己の姿を見た。傷だらけの躰。唇が、震えた。 直ぐ様バスタオルを纏い、何事もなかったかのように部屋へ戻ったが、 紫呉の中では、自分自身に対する憐憫の感情が、胸を締め付けていた。 「―――殺したい程、憎い相手が居たんだ・・・」 「・・・そうか」 一人で寝るには大き過ぎるベットの上に腰を下ろして、紫呉は苦笑した。 はとりの返答は、予期した以上に、簡素なものであった。 だが、失望した訳では、ない。 寧ろ深く詮索された所で、今の自分に答える術はなかった。 手が、微かに震える。その震えは、導火線のように、全身へと拡がった。 フワリ、と慈しむように頭を撫ぜられて、紫呉は思わず顔を上げる。 自分を見下ろすはとりの瞳は、とても優しくて――― もう何も語らなくても良いのだと、紫呉は思った。 何時の間にか、雨は止んでいて、はとりが手を伸ばすと、明かりが消えた。 視界が掠れて、紫呉は茫漠と世間から隔絶する。 耿々とした夜景を一望できる硝子張りの、 大きな窓から投げかける月明かりと、イルミネーションの光のみが、 薄暗い室内を仄かに照らし出していた。 自然と人工の光の絶妙なバランスが、幻想的な美しさを演出する。 何処からか侵入してきた微風は、爽爽と紫呉の髪を揺らした。 * 外は朧であった。 半ば世を照らし、半ば世を鎖すかのような光が、フワリと空に懸った。 まだ更けぬ宵に浮かんだ月は、色を失ったまま、黒ずんだ藍の中に滲み出す。 流れれば、月すらも消えそうに見えた。 月は空に、人は地に、紛れやすい宵であった。 はとりはソッと紫呉の手を把った。 仮令、伸ばした手の先にあるものが、冷たい氷の棘であったとしても、この手を 掴まずにはいられない、そんな不思議な心地―――― そうすることが当たり前だったのだろうか。 はとりは己の手を、背中から躰の線を押し包むように辿らせて、紫呉を抱き寄せた。 抵抗はない。元より、するつもりもなかったのだろう。 紫呉もまた、そうされることが当たり前であったかのように、身を委ねてきた。 独特な香りが、スン、とはとりの鼻先を掠める。 もう一つの手と、その後を追う湿った感触が、常に意識を背中に引き戻す。 啄む様にその唇に触れると、ゆっくりと彼の躰の力が抜けていくのが解る。 はとりは、両膝の裏に手を差し入れ、折り曲げて開かせると、その間に体を挟んだ。 頭を下げて、先走りの蜜を漏らす花芯の先端に、そっと唇を寄せると、 僅かに躰が跳ね上がる。 花芯を扱う手はそのままで、唇を爪先から少し開いた内股に滑らせ、強く吸い上げた。 抱え上げた足は、想像以上に細くて、薄い胸が忙しなく上下している。 濡れた髪と、ほんのりと紅く染まった肢体。 その艶かしさと、婀娜な微笑みに、狂わされる。 紫呉の微かな息遣いだけを感じながら、はとりはその奥で息衝く濡れた泉に、 自身を沈めた。 背中が引き攣ったように、躍動する。 ――――あぁ、そこが・・・ 刹那。 何故かはとりは、切ない程に、紫呉が愛おしくなった。 胸が張り裂ける程、はとりの鼓動が高鳴る。 絶対に声を上げようとしなかった彼がした、初めての抵抗。 ギュッと腕を掴まれた瞬間、ほんの僅か湿った感触が、そこに残った。 全ては、この瞬間だけのために―――― 震える瞼を、閉じる。 透明な、何の匂いもしないその躰。誰の匂いにでも染まるその躰。 幾度も男を受け入れているであろうその躰は、まるで初めてのように狭く、 それでいて、己を融かしてしまいそうな程に熱かった。 綺麗に反り返った背中も。 白い喉元も。夜に濡れたその瞳も。 いっそ全て、自分のものにしてしまえたら―――― 濡れたシーツには、黒い影が落ち、二人の耳に届くのは互いの吐息だけ。 だが今、紫呉の意識は、此処にない。 何に怯え、何に耐えているのだろう。 何処を見て、何処へ行きたいと考えているのだろう。 夜の闇に包まれながら、互いに曖昧な浮遊感に、身を任せる。 紙のような、質感。 空気が酷く冷たく感じられ、はとりは互いの隙間を埋めようと、 その度に紫呉を強く抱いた。 言葉さえ交わすことのない、曖昧な関係。 だが、そんなことはもう、如何でも良かった。 たった一夜の間で、触れ合った瞬間、それだけで十分だ。 静か、だった。 はとりは、紫呉が眠ってしまった後も、合わせた肌と、 繋いだ手の平から伝わる温もりを、ただ感じていた。 眠る紫呉のその唇に、渇きを満たすように、ゆっくりと口付る。 愛情に餓えていたという訳ではなかった。 だが仮令、与えられるものにどれだけ愛情が龍っていたとしても、 そういった感情というものは、相手の慈しむ感情が漏れ伝わった時に、初めて肌で 理解るものだろう。 そして自分は、それを知識として学問を学ぶように身に付けただけだった。 だけら、理屈の上では解っていても、その温もりを直接肌で感じることが出来なかった 自分にとって、結局、愛情というものは空虚なものでしかなかったのかもしれない。 フと顔を上げると、月はまだ空の中に居た。 月明かりに圧されて霞んでいた星は、雲を潜って内側へと抜けそうに見える。 ――――殺したい程、憎い相手が居たんだ。 時折悲しそうな、時折透き通った無邪気な瞳を見せる、紫呉の顔。 先刻、今にも泣き出しそうな表情で、そう云って振り返って苦笑した紫呉は、 哀しいくらいに美しかった。 誰も映さず、誰の物にもならないその瞳は、何時か自分を映してくれるだろうか。 「・・・紫呉―――お前は、一体・・・・・・?」 静かに重い闇の中、はとりの澄んだ声は、夜陰の大気に弾けて消える。 地に落つる、冴ゆる光は、重たき温気を中に封じ込めたまま、限りなき大夢を、 半空に曳いた。 |
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