歪んだ扉
空は浅葱色に染まり果て、上方の雲間から数本だけ光が差し込んだ。 ゆっくりと空を仰ぐと、純白の層雲は、何かを描くかのように連なっている。 吐く息は白。水彩質の空は、透かしたような藍。 薄墨を暈したような朝靄の中、遠景だけが静かに形を結んでいた。 地上を照らし始めた仄かな光は、薄地のカーテンの紋様を浮かび上がらせている。 生まれたばかりの太陽の光と、今日最後の闇が交錯するこの瞬間だけの 儚くも壮烈な、それでいて柔らかいブルー・グラデーションの世界。 「―――・・・はーさん・・・・・・」 昨夜の余韻と眠りが揺蕩う甘い室内に、紫呉の澄んだ声が染み渡る。 曖昧な時間の空隙に、目覚めているのは鳥と己のみ。 暖かい淡光は、柔らかく入り込んで、はとりの黒髪を縹色に縁取った。 癖の無い青糸は、彼が寝返りを打つ度に、サラリと流れる。 自分と床を共にした人は、未だ眠りの深淵にあった。 「・・・時間だよ・・・はーさん――――」 「―――ん・・・・・・」 僅かに力を込めて、再度、呼び掛けると、はとりが緩々と睫毛を上げた。 煎りたてのコーヒーと、パンの芳しい香りに気付いたのであろうか。 一人複雑な感情を持て余していた紫呉は、目を細めて微笑んだ。 「・・・おはよう。はーさん・・・・・・紅茶もあるけど、コーヒーで良かった?」 「―――あぁ。有り難う、紫呉・・・」 寝起きの少し掠れた声で名前を呼ばれて、思わずドキリとする。 相好を崩しながら、此方を見上げるはとりの瞳は、以前のものと何ら変わりはなかった。 だが、目覚めは強制的なものではなく、もっと自然なものであって欲しいと願う 彼の期待に、自分はとても応えられそうにない。 着替えをする為に、隣の部屋へ行こうとしたはとりが、壁と接吻しそうになったのを 見た時、紫呉は思わず腰を浮かしかけたが、同時に苦笑も禁じ得なかった。 要するに、低血圧なのだ。 そして、自分は寝惚けた彼を揶揄う気は、毛頭無かった。 幾ら父親の死後、事業を受け継ぎ、若くして社長になったとは云え、 中途半端な資本政策や、テクニックだけの経営コンサルタントでは、何れ 会社は崩壊していくだろう。 草摩はとりと云う人物は、その企業の社会的意義や、部下の個性や才能を見抜く能力、 それに、人の上に立つ資質と実務能力を併せ持つ切れ者なのだ。 ただ、この端正な青年実業家からは、若さ故の活力というものが、どうも感じられない。 既に様々な人生経験を積んだ、酸いも甘いも弁えた、ある種の熟成が、彼の中には あるのだ。言葉や仕草の一つ一つを取ってみても、焦らず、非常に泰然自若であり、 物腰はどちらかと云うと、上品でソフトであった。 だから若しかすると―――彼は、青年実業家と云うよりも、寧ろ紳士なのかもしれない。 食卓の上で、金色の影が揺れた。静かな朝食。 白い皿の上には、色合いの美しい野菜サラダに、ふんわりとした スクランブルエッグがあった。 薄くカリカリに焼き上げたトーストの上で、バターが殆ど溶けかかっている。 こうして、はとりが起きるまでの間に朝食を準備しておくのは、 もうすっかり自分の日課になってしまったが、初めてテーブルを挟んで向かい合った時の 彼の感極まった表情は、今でも忘れられない。 きっと自分が此処に来るまで、真面に朝食を摂っていなかったのだろう。 はとりは何時も、新聞から目は離さないまま、手だけでカップを探って、 無意識にコーヒーを口に運ぶ。 そして時々、活字の上から顔を上げ、自分に向かって微笑んでくれるのだ。 特に深い意味はなかったのかもしれないが、紫呉は、その柔らかな笑みを見る度に、 安堵した。 その微笑が、紫呉の心の中に、温かい小さな旋風を呼び起こすのだ。 そして、その戯な旋風は、思い出したくもない紫呉の記憶を吹き払うに 十分過ぎる程の効力を持っていた。 しかし、今朝は違っていた。 新聞から顔を上げ、歯に物が挟まったように、二言三言喋った後、 はとりは何とも申し訳なさそうな表情を浮かべて自分を見た。 「・・・今月末に重要な商談を控えていてな――――暫らく、家に帰れないかもしれない」 ニ瞬程の間隙の後、はとりは静かに新聞を畳んだ。 同時に、長い睫毛が白皙の皮膚に影を落とす。 「・・・仕事だもの。仕方ないよ・・・でも、無理だけはしないでね」 励ましの意を込めて、態とそう明るく云ってから、 紫呉は飲みかけのカップをテーブルに戻した。 はとりが何か不安を抱えていることは、その瞳に沈んだ暗い色を見れば、 十分に解る。 彼はその商談のことを心配しているのだろうか。それとも―――― 刹那―――― 「―――顔色が、悪いな・・・」 ソッと髪を掻き上げられた。 白珠のような歯が、端正な唇を噛み締める。 はとりの指先は、微妙に慄えていた。 「光線の加減の所為だよ、きっと・・・」 あぁ、彼が心配しているのは、自分のことだったのだ。 だが、仮令それが解ったとしても、如何して本当のことを云えるだろう。 はとりが今、懸念していることは、多分正しい。 躰は僅かに熱を持っているのに、指先は妙に冷たかった。 蟀谷の辺りが激しく脈打つような奇妙な感覚がして、ズキリと胃が軋む。 体調は頗る悪かったが、それを伝えることだけは絶対に出来ない。 心の底から沸き起こる様々な感情を押し殺して、紫呉は精一杯微笑む。 足手纏いにはなりたくない、という思いだけが、無意識に自分を突き動かしていた。 自分は、如何したら、もっとこの人に近付けるのだろう。 何処までも深く、透明な蒼い瞳に、視線を捉えられる。瞬きすら、出来ない。 吸い込まれるというよりも、一瞬にして飲み込まれてしまいそうな、圧倒的な蒼茫。 至近距離ではとりに顔を覗き込まれ、紫呉はまるで自分が瞳の中の無限の宇宙に 放り出されてしまったかのような錯覚さえ覚えた。 自分が何処にいるかさえも解らない、曖昧な惑乱。 不安定な歯痒さに、心が波立つ。 微動だに出来ないまま、紫呉もまた、彼を見詰めた。 と―――― 唇に、暖かいものが触れた。柔らかい感触。 夜明けと共に朝霧が消え、ぼやけていた輪郭が鮮明になっていくように、 それまで硬直し、麻痺していた紫呉の全身に、感覚が戻ってくる。 取り戻した感覚の全ては、その一点のみに集中していた。 激しさや荒々しさは微塵もない深く穏やかなキスは、二人の躰を紫紺に染める 澄み切った薄明の空気のように、優しい感触となって、躰中に浸透してゆく。 やがて、甘やかな余韻を残して、静かに吐息が離れた。 緩やかに漂う湖面の落ち葉のように拠のない自分を残して、 はとりが遠ざかっていく。 テーブルの上に御座なりに置かれた銀色のスプーンは、陽光を受けて鈍く光っていた。 * 聳え建つ高層ビルの窓を染めて沈む夕日は、プリズムに拡散されて、 自らの分身を撒き散らしながら、部屋の隅々を淡い金色に染め上げた。 前方に置かれた灰皿の横で、午後が黄昏に滑っていく。 夕闇が忍び足で接近してくる気配すら感じなかった。 一体自分は、何時から会社に居たのだろう。 気が付くと、世界は夕刻を迎え、闇の張が降りようとしていた。 自らが走らすペンの音だけが、無機質で冷たい部屋に響き渡る。 今や、世界に冠たる大企業の全てを担う青年は、半ば無意識に 小さく乾いた溜め息を漏らした。 此処数日の激務続きで、殆ど眠っていない所為か、目の奥が酷く痛んだ。 既に集中出来ず、ぼやきかけている思考回路を総動員させ、デスクに向かう。 朝までに全ての書類に目を通さなければならない。 だが、自分の中で組み立てた絶対的消化スケジュールを幾ら反芻してみても、 このままでは能率が上がらないのは目に見えていて―――― はとりは一旦、書類から目を離すと、部屋にあるキャビネットから ワイルドターキーを取り出して、それを口に含んだ。 それが躰中に燃えるように広がって行くのを感じながら、 今夜もまた帰れそうにないな、と肚の中で思う。 だが、今はまだ、弱音を吐くわけにはいかない。 自分が成すべきことは山と積まれているのだから。 溜め息のような息を吐くと、辺りに、微かにアルコールの匂いが立ち込めた。 瞬間―――― 「―――やあやあ、とりさんっ!!Bonsoir!!(今晩はっ!!) Vous allez bien? (調子はどうだい?)」 高らかな声と共に、何の前触れもなく、唐突に扉が開く。 ノックも無しに現れた派手な秘書を、はとりは呆れたように見遣った。 「Pas bien.(よくないね)」 「そうかい、そうかい・・・無理はいけないよっ!とりさんっ!!」 「・・・そう思うなら、家に帰してくれ、綾女――――」 「ノンノンっ!残念ながらその要望には、応えることが出来ないねっ!!」 彼は、朗らかにそう云うと、"チッチッチッ"と指を振った。 腰まで伸びた銀糸の髪が、豊かな波を描く。絵に描いたような麗人。 描かれたように形の良い眉。両眼は鋭いほど生気に満ちて輝き、 端正な鼻と口に欠ける個性を充分に補っている。 だが、彼が異彩を放っているのは、その服装だった。 スーツの代わりにチャイナ服を着込み、剰え、毛皮のコートまで纏っている。 そんな奇抜な出立ちから、一体誰が彼を有能な秘書だと思うだろう。 何処までも破天荒で、常に自分のペエスで闊歩する人間―――それが、この綾女だった。 「まぁ・・・仕方ないか。お前には借りがあるし・・・・・・」 「その通りさっ!!とりさんが仕事を途中で放り出した所為で、 僕はあの後、大変だったんだからねっっ!!」 部下にそう断言されてしまっては、自分も形無しである。 綾女は、唯一の上司であるはとりに対しても、まるで友人に話すかのような口振りだった。 それは分け隔てなく他人と接するという彼の方針故の ことであったが、はとりは綾女のそんな所も気に入っていた。 最も、自分が真似をしようと思ったことはないが。 だが、幾ら差別撤廃の運動が盛り上がっているとは云え、結局の所、敬語の多過ぎる 日本語そのものを変えない限り、本質的な「差別 」を完全に根絶することは 難しいかもしれない。 「―――ところで、何かあったのか・・・綾女?お前が此処へ来たということは・・・・・・」 鷹のように鋭い視線を向け、含む所のある思わせぶりな口調で、はとりは云った。 途端に綾女の顔に、緊張の色が走る。 綾女は愚人を装っているだけで、決して無能ではない。 それどころか、彼は驚く程、処世術に長けていた。 商談の際の取引相手との絶妙な賭け引き。 相手の思惑の裏の裏を読むのが当たり前の交渉戦で、綾女はとても二十代とは 思えない程の手腕で、取引相手と対等に、望み通りの契約内容を取り付けてきた。 彼のやり方を好み、綾女に憧れている若い社員も少なくない。 いざとなれば、社長代理すらこなしてしまうかもしれない綾女が、 黄玉色の瞳を此方へ向けた。 「・・・・・・取引先だった会社の重役が―――亡くなったよ」 「・・・自殺、か・・・・・・」 苦々しげに、呻く。 否定をしない所から察するに、恐らくそれは真実なのだろう。 綾女から差し出された報告書を受け取り、それに軽く目を通すと、 何とも形容し難い、遣り切れないものが、はとりの胸を過ぎった。 会社から不条理にも押し付けられた自社製品。 そんなモノが、たった一人の尊い命を奪ったかと思うだけで、吐き気がする。 だが、遺された家族の気持ちなど顧みずに、会社はその死を必死で隠蔽しようと するだろう。 研修と称した洗脳を行い、自社サービスや社員持ち株を強制的に購入させる―――― それは、強制された忠誠心。 利益追求を第一優先とする、そんな方針を決め認め続けてきた側に、問題はある。 会社の犠牲と銘打って、社員を食い物にするそのやり方が、 はとりには如何しても許せなかった。 「綾女、三時間だけ仮眠を取る。時間になったら、起こしてくれ――――」 パサリ、と書類をデスクの上に放り投げる。 仮令どれ程、厳しい状況の中でも、労働者は間違いを起こすまでの忠誠心を 持つ必要などない。 会社の犠牲になることは、社会の中で多くの犠牲者を出すことにも繋がる。 会社人である前に、個人としての社会人であって欲しい―――― それが自分の細やかな願いであった。 「D'ac!!(了解っ!!)」 そう云って、綾女が軽やかに身を翻すと、淡い月明かりを受けて輝く 蒼銀色の髪がサラリと宙に舞った。 ドアの向こうへ綾女が消えるのを待って、はとりはデスクの椅子に沈み込む。 一人になった途端、今まで緊張で抑えていた疲労が、爆発的に躰を襲った。 襤褸雑巾のようにグッタリ消耗しながら、きつく瞼を閉じる。 限界に近い疲労は、耐えがたい睡魔となってはとりの全身を包み込んだ。 ―――紫呉・・・・・・ これまでは、仕事で長期間、家を空けることくらい何とも思わなかったのに―――― まだ情緒不安定な彼を残してきたことが、これ程辛いとは想像もしなかった。 紫呉には自分名義のゴールドカードが渡してある。 このカード一枚で、当面、彼が生活に困ることはない筈だった。 最初は要らないと云っていた紫呉であったが、自分が執拗に勧めると、 諦めたように首を振って、態と意地の悪い笑みを浮かべてこう云ったのである。 「ねぇ、はーさん。若しも僕が、このカード持って逃げちゃったら如何するつもり?」 「・・・それでも、いいさ―――」 そんな憎まれ口を叩きながらも、紫呉が物欲に乏しいことを、はとりは知っていた。 微笑しながらそう答えると、紫呉の顔が、不安気に歪み―――― 自分の腕の中で僅かに身動ぐ紫呉の髪をソッと梳いてやると、 憂いを帯びた黒い瞳が、切な気に揺れた。 「冗談・・・だから、ね?」 あの後、紫呉は今にも消え入りそうな声で、そう云ったのであった。 抱いていた時の温かい感触が、脳裏に蘇る。 ――――必ず・・・必ず、帰って来るから。どうかそれまで、待っていてくれ・・・ 意識が徐々に薄れていく中、はとりは、そう心に刻み込んで意識を手放した。 * 「―――君の力が、必要なんだ」 その男の声は、異常な程、冷静だった。 思わず目を剥いて、自分を安心させるように微笑した男の顔を、凝視する。 本気か―――若しかすると、冗談だったのかもしれない。 暗闇の中でも、男が微笑する口元だけが、明瞭と浮かび上がった。 ぬらぬらと怪しく光る眸の虹彩が、絞り込まれる。 男は自分の鼻先に肩を当てるように顔を突き出し、耳元に息を吹き込むかのように、 こう囁いた。 「復讐したいと――――そう思っているんだろう?」 暗示にかけるかのような、低い声。思わず息を、呑む。ゾクリと、背筋に悪寒が走った。 それは、自分にとって甘美な誘惑でもあった。 これ以上開かない程、目を見開いて、男を凝眸る。 自分は誑かされているのかもしれない。 「大丈夫。君は・・・僕の云う通りに動けば良い」 一度死んだ光は、自分に何も与えてくれなかった。 信ずるに値するものが、欲しい。 この男なら、自分が求めていたものを与えてくれるだろうか。 「――――やって、くれるね・・・・・・?」 自分は何時の間にか、縋るような視線を向けていたのかもしれない。 死したる夢ではない、明らかなる夢。 その言葉に吸い込まれそうになりながらも頷く自分の姿が、遠く、虚ろに映る。 転りつつ、抑えられつつ走る世界は、何時しか消えようとしていた。 眼を半天に走らせると、ゆっくりと浮上する感覚が自分の躰を包み込む。 紫の襞と藍の襞が交互に不規則な動きで収縮する中、やがて世界は最上の純白に至った。 「・・・・・・っ!!!」 意識が覚醒すると同時に、片手で毛布を跳ね除ける。 自分は一体、どの位、眠っていたのだろう。 肩で息をするくらいに鼓動は早く、嫌な冷たい汗が背中を伝った。 悪夢に迷い込んでいくような、足場が崩れていくような不安定さに頭を振り、 紫呉は顔を両手で覆う。 部屋は異常に寒かった。若しかすると、空調が故障しているのかもしれない。 部屋は漠然とした哀しみに満ちていた。 夜はまだ深く、黒々とした粒子をたっぷり含んだ陰鬱な空が、寂寥感を漂わせている。 紫呉は暗然とした気持ちで、窓の向こう側を見遣った。 消し忘れたテレビの画面が、無味乾燥な光と音を流し続ける。 遠くに映る高層ビルのイルミネーションが、滲んだ。 彼は―――はとりは、もう帰って来ているだろうか。 そんなことを考えながら己の首に手を当てると、鳥肌が立っていた。 夜着一枚では、寒いかもしれない。 気分が勝れないまま躰だけを起こすと、酷く喉が渇いていることに気付いた。 欲求に促されるまま、緩々と立ち上がる。 「・・・はーさん・・・・・・?」 扉を開けると、中は昏かった。誰も居ない。 部屋の中に足を踏み入れた瞬間、遠赤外線センサーが人を感知して、 自動的に明かりが点いた。思わず、目が眩む。 何度も瞬きをした後、最初に紫呉の視界に飛び込んだのは――― ラップが掛けられままの、白い皿。勿論、動かした形跡など、無い。 片付けなければならないのに―――何故か、視線を外すことが出来ない。 食器棚には数週間前に、はとりを見送った朝、朝食に使った皿が載っていた。 「・・・もう、食べられないね――――」 すっかり存在を忘れられてしまった皿を、片手で引き寄せる。 冷たくなった皿に指先を這わせ、その縁を指で弾くと、弾みでスプーンが揺れ、 乾いた音を立てて、哭いた。 食べ物を粗末に扱うようなことはしたくないけれど、仕方が無い。 カタリ、とテーブルの上に置いてあった皿を手に取ると、傾ける。 重力に従いながら音を立てて落ちるそれを眺めるのは、もう何度目だろう。 それでも自分は、何時帰ってくるか解らない人の食事を作り続ける。 こんなことは無駄だと―――理解り切っているのに。 食器を洗う為に出した水は、氷のように冷たかった。 自分の手の中で、茶碗と皿とが触れ合って、カタカタと小さな音を立てる。 微かに震える手元から目を逸らすと、紫呉は自嘲めいた笑みを浮かべた。 「別に、はーさんが帰って来なくたって――――」 掠れた声は、徐々に小さくなって、霞み、やがて拡散して消える。 間際。 声が、聞こえた。 ――――無理に家事をするなと、云っただろう・・・? 嗚呼。 あの微笑みも。低く、甘い声も。腕の温もりも。その感触も。 此処で行われた出来事も。 それが失われてしまってからも、彼が居なくなってからも、ずっと―――― その時のことを、その人が居たことを、空気は憶えてしまった。 触れられることの出来ない筈の温かさは、抱き締められた時の息苦しさを。 上に浮上していくような感覚は、耳元で囁かれた吐息の切なさを。 その感覚だけが鮮明に思い出されて――― 彼に、はとりに背後から抱き竦められた、あの時の感触が――――蘇る。 「―――っ、・・・ど・・・して・・・・・・何で、はとり・・・・・・っっ!!!」 これまでは独りでも、平気だった。人と接することなど、嫌いだった。 欺くことなど、欺かれることなど、当たり前だった。 だが、はとりに出逢って、己の罪深さを何度も思い知らされた。 彼が優しくしてくれる度に、胸が痛んだ。 それでも―――― 二人で居る温かさを識ってしまったら、一人の時間は切な過ぎる。 「―――は・・・さん・・・・・・」 紫呉は両腕で、思い出した温もりを少しも逃がすことのないように、自分の両肩を抱いた。 一度緩んだ涙腺は、簡単にその流れを止めてはくれない。 零れ落ちた涙は、天鵞絨に染みを作る。 紫呉は声も無く、テーブルに突っ伏したまま静かに泣いた。 如何して人は、こんなにも哀しい生き物なのだろう。 如何して人は、こんなにも誰かの温もりを求めてしまうのだろう。 「―――っ、ふ・・・・・・はーさ・・・・・・帰って来て・・・・・・」 濡れた頬を拭うような真似は、もうしない。 寒さに背中を震わせた後、口を突いて出たその言葉は、未明の部屋に掻き消えた。 * 空は鼠色から紺碧の色に染まり、やがて完全な闇が世界を覆った。 郊外へ進むに連れて、人工的な風景よりも、自然のままの景観を留める割合が増える。 文明から遠ざかっていくような奇妙な感覚に酔いしれながら、はとりは車のハンドルを 右へ切った。 同時に、対向車のライトが闇を切り裂いて、夥しい光を顔に浴びせかける。 信号に従い停車すると、はとりは内ポケットを探り、小さな箱を取り出した。 「はーさんの瞳の色に似て―――綺麗だと思ったから・・・」 それまで何も強請ったことがない紫呉が、初めてショーウィンドウの 硝子に手を付いたのは、二人で街へ繰り出した日。 紫呉の目を奪ったのは、深い青みがかった宝石だった。 明かりに照らし出された宝石は、それ程迄に煌びやかだったけれど、 自分の視線は、硝子に映った紫呉を多分、見ていた。 結局、それが欲しいとは遂に口にしなかった紫呉であったが、 息を呑む程美しかった紫呉の表情が、如何しても忘れられず―――― はとりは今日、その宝石を加工して貰ったのである。 決して洒落た意匠ではない、無骨な指輪。 だが、彼だけを想って誂えた、特別な指輪だった。 紫呉の喜ぶ顔が、一刻も早く見たい―――― それだけを思うと、はとりはアクセルを強く踏み込んだ。 帰宅するのは一ヶ月振りであった。 耳障りな電子音が鳴り、扉が開くと閉じ込められた風が、一気に解放される。 朦朧と滲む空気に、外気の匂いはなかった。 外界と隔離された、異質な空間。 「―――紫呉・・・?」 俄かに、激しい不安を感じる。 何時もなら、此処で紫呉が出迎えてくれる筈であったが、今日に限って 彼は出て来なかった。些細な違和感。 首を巡らせながら名前を呼ぶと、テーブルに俯せになったまま寝ている紫呉が 視界の端に留まる。 「―――こんな所で寝ていると、風邪を引くぞ・・・・・・」 呆れたような口調でそう云って、はとりは、紫呉の肩に手を置いた。 身動き一つしない紫呉を不審に思いつつも、手に軽く力を入れて躰を揺らす。 瞬間―――― ――――ドサリ。 一瞬、何が起こったかすら、解らなかった。 凍て付いた時間と空間。 抵抗なくその場に倒れた紫呉の肢体を、はとりはただ呆然と注視た。 床に広がったままの髪。窶れて痩けた頬。 蒼白く憔悴した目に光は宿っておらず、端正な鼻の骨は鋭く浮き出ていた。 細くなった首には、見慣れない筋が付いている。 「紫呉―――っっ!!!」 静寂という騒音が、鼓膜を突き破らんばかりに、膨れ上がった。 心臓が胸腔の中で跳ね回っている。 慌てて抱き起こしたその躰は想像以上に、冷たかった。 羽織っていたコートを脱いで、紫呉の躰を包み込むように抱き締める。 本当は、ずっと調子が悪かったのに、紫呉はそれを隠していたのだ。 途方も無く辛い時でも、精一杯虚勢を張って微笑む紫呉に、自分は気付いてやれない。 あの朝、彼はどんな気持ちで自分を送り出したのだろう。 紫呉の苦しみを考えるだけで、胸を掻き毟られるような衝動に駆られ―――― はとりは血が滲むくらい強く、唇を噛んだ。 泣き叫びたい程の絶望が、自分を襲う。 挫けてしまいそうな精神を何とか奮い立たせると、はとりは未だ昏睡に陥ちる 紫呉を抱え上げ、病院へと急いだ。 * トロトロとした浅く苦しい眠りだった。 自分の人生とは切っても切り離すことの出来ない怒りの残滓は、ただ漠然と胸の内を 漂っていた。 胃の辺りに沈殿しているのは、微かな吐き気。 酸素が十分でないのか、何処か息苦しい感じがした。 過去の穴がスゥと開いて、生まれて来たことが罪なのかもしれないと膝を抱える自分が 細長く、遠くに見える。 暫らくそれを眺めていると、今度は手の平が温かくなった。 誰かが―――誰かは解らないけれど、誰かが優しく手を取って自分を導いてくれる。 それは罪悪などではない、と。 暗夜を照らす提灯の火の如く揺れる光に誘われながら、 紫呉は覚束無い足取りで歩き始めた。 闇よりも尚濃く、視界を妨げる白い霧が、晴れてゆく―――― 意識が朦朧とする中で、紫呉は重い瞼を開けると視線を彷徨わせた。 無機質で温かみに欠けた白い天井が、薄らと広がっている。 つん、と独特な薬品の臭いが鼻をついた。 錆びた鉄枠の寝台は、如何にも寝心地が悪い。 硝子瓶から伸びた点滴の細管は、左腕の静脈辺りに刺さっていた。 「―――紫呉」 誰かが、自分を呼ぶ声がした。温かい手。 何所か懐かしいその温もり。 「はーさん・・・・・・?」 紫呉は大きく息を吐いてから、ゆっくりと、その人の名を呼んだ。 あぁ、傍らに座って、包み込むように自分の手をずっと握っていてくれたのは はとりだったのだ。 「―――気分は?」 「・・・大丈夫。心配かけて、御免ね―――はーさん・・・仕事は?」 「もう、良いんだ――――」 お前が心配することじゃない、とはとりの声は平静だったが、 その声は紫呉の耳に何処か哀しげに響いた。 軽く咳き込んでから、フと左手の薬指に違和感を覚える。 視線を落とすと、そこには指輪が嵌っていた。 「――――!?駄目だよ!!はーさんっ!!これは受け取れない!!」 頬を朱に染めて、慌ててそれを外そうとすると、やんわりと静止された。 何時に無く深刻な雰囲気に、飲まれそうになる。 硝子瓶の中でコポコポと規則正しく泡の弾ける音が、間近に聴こえた。 「俺の自己満足だ。受け取ってくれ―――」 「――――!!」 それは、痛々しい程の囁きだった。心臓が早鐘を打つ。 紫呉はそのまま、はとりの口元に運ばれて行く己の手を、無意識に目で追っていた。 薬指に落とされた口付けに、躰の芯が熱くなる。 喉の奥に何かがつかえたように、声が出ない。 光さえも拒む心の奥底に、例え様もない温もりが宿った。 その温もりは、何所か擽ったい幸福感を自分に与えてくれる。 今、自分は上手く笑えているだろうか。 「―――傍に、居るから・・・・・・」 「―――ん・・・」 もう苦しまなくても良いように。 もう泣かなくても良いように。 唇が、吐息が、鼓動が重なる。 未だ無自覚ではあるものの、互いに味わったこの感情が、 互いに求め続けてきたものであるということに二人が気付くには、まだ幼過ぎた。 そのまま縺れ込むように、ベッドに沈む。 先刻までの霧は、何時の間にか粉のような雪に変わっており―――― 乱舞する粉雪は、果敢ない景影を窓の向こうで象造った。 |
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