歪んだ扉



                     
chapter 4 So don't go away,whoever......









硝子戸を開けた瞬間、染め付けられたような空から、深い輝きが部屋の中に落ちた。
陰鬱に照らし出されたのは―――主の居ない部屋の扉。



季節はもう雨水も過ぎて、暦の上では春を迎えているのであるが、
寒さは地に凝りついたように離れなかった。
湿った土の匂いと、やや春の兆しを孕んだ草木の香りが少しだけ待ち遠しい。
湿・乾・冷・温が自由に調節できるようになっている一室は、心臓の鼓動が
聞こえるくらい静謐であったが、紫呉は土や酸素など様々な匂いに満たされた
この空間が好きだった。




霞んで浮かぶ、遠景の表紙。
鳥になったかのような、錯覚。


此処―――高台にあるマンションからは、(まち)の広大な背中を
眺め渡すことが出来る。
モニター越しの世界と違う景色に戸惑ったのは最初だけで、
スケールの違う違和感にも、もう慣れた。




目が眩む程の高さから下を見遣ると、遍く大地に根を張る名前も知らない大きな樹木が、
道に心地良さそうな陰を作り、爽やかな音を立てて、葉を鳴らしている。
爽爽(サワサワ)と枝を揺らす木を眺めていると、そのまま自分が
漂って消えてしまいそうな、果敢なげな気持ちさえ湧き上がって――――
唇が僅かに(ふる)えた。
だが、躰に沁み込んでくるものは、何も爽快なものばかりとは限らない。




凛烈な大気と共に、無数の鈍いエンジンの音を乗せた風が、広い潮騒となって
部屋へ流れ込んでくる。
配信ポールの先端から各戸に伸びるケーブルの撓みは、統一感の無さを助長しており、
犇き合ったマッチ箱のような家の屋根と、遠方に聳え立つビルは、
さも窮屈そうに見えて―――何だか息が詰まりそうな心地さえした。
彼方此方でキラキラする閃光は、硝子や瓶の栓なのかもしれない。




空虚に透んだ空には、烟が立ち上っていく。
昼夜を問わず白い烟を吐き出し続ける、赤と白の縞模様(ストライプ)の煙突。
少しばかり埃を乗せた風に、むず痒いような落ち着かない気持ちになって、
咳き込みそうになりながら視線を上げると、澄み切って星が見えそうな程に蒼い空と、
霧のように薄い微かな雲が見えた。





―――



ガタリ。


突然の物音に、長閑な風景が霧散する。
思わず眉を顰めながら、紫呉はすぅと、虚空に伸びた視線を玄関へと移した。
はとりが戻ってきたのだろうか。
―――そんな筈はない。
彼が此処を発ってから、もう疾うに半刻以上は経っている。
加えて今日は、訪問者の予定もない。




僅かに警戒心を滲ませながら、紫呉は反応しないモニターを注視(みつめ)た。
壁に備え付けられているそれは、通常、訪問者があった場合、
自動的にオンになる筈なのに、画面はピクリとも動かない。
モニターに表示されたままの沈黙した時計を眺めていると、紫呉は自分の喉が
酷く渇いていることに気付いた。



このマンションのセキュリティ対策は万全で、侵入者があれば、防犯カメラが、
エレベーターホールの映像を捉え、それを室内に送る仕組(システム)になっている。
だが、作動しないことから察すると、来訪者はカメラの死角になる位置を
知っているのだろうか。



人が居る気配はするのに、姿が見えない。
長い逡巡の挙句、紫呉は微かに痙攣した指先をモニターに滑らせた。
視界の端に映ったのは―――セキュリティコール。




刹那――――



――――何か遭ったら、俺を呼べ・・・・・・


何時だったか、優しくそう云ってくれたはとりの顔が脳裡一杯に広がって、
何故か切ないような、甘く蕩けるような感触が紫呉の内部を満たした。
守られているような、不思議な安堵感。



何とも形容し難い温かさに包まれながら、紫呉はモニターをオンにした。
途端に機械的な信号音が鳴って、ロックが解除される。










「はっ、はっ、はっ・・・・・・Good morning(グッモーニングッ)!!
ん・・・?何だい、何だい、その顔は・・・なーに、案ずることはないさっ!!
僕は日本一有能な、とりさんの秘書だっ!!!」



その長身の女―――否、男は、綺羅綺羅(キラキラ)と輝く光の粒を背負って、
逆光の中に立っていた。
輪郭と笑った時に覗いた白い歯だけが、やけに明瞭(はっきり)している。
何が如何なっているのか、皆目見当もつかないままに、紫呉が硬直していると、
彼はさっさと靴を脱ぎ、部屋へ侵入(はい)った。止める間もない。

透過の風に、銀糸が揺れる。




「・・・ちょっ・・・はーさ、はとりなら、今―――


出掛けている、そう続けようとして紫呉は我知らず口を噤んだ。
振り返った彼を、思わず、
凝眸(ぎょうぼう)する。



人形のように精巧な顔立ち。
陽に翳すと透けてしまいそうな色素の薄い肌。
稀に見る麗人である。

毛皮のコートの隙間からは、真紅のチャイナ服が覗いており――――
彼が
克己主義(ストイシズム)(てら)っていないことなど、
時代に
(さから)うように着飾ったその姿をみれば、一目瞭然だった。

これがはとりの会社の
制服(コスチューム)なのだろうか。
此方を見据えた大きな黄玉色の瞳が、挑発するように煌めく。




「そんなことは知っているともさっ!!僕はキミに会いにきたんだからねっ!!」




自信たっぷりのその声に、紫呉は僅かに混乱し、そうして冷静に考えることを放棄した。
黙っていれば、貴公子にも見えるこの男は、高笑いで登場するような男なのだ。
恐らく何を云っても―――無駄であろう。


複雑極まる個性を髣髴させたその人物は、アラベスクを織り込んだ絨毯の上を
堂々と歩くと、テーブルの前まで来て、感極まった声を上げた。




「うんっ!!実に良き計らいだねっ!!この僕が、こうして此処へやって来ることを
予想して、予めコーヒーを淹れておいてくれるなんて・・・・・・」



―――!?それは・・・」


もはや彼の容姿と立ち振る舞いは、完全に乖離していた。
テーブルの上に置かれてあるコーヒーを手に取るや否や、それを一気に飲み干して
しまった彼を、紫呉は唖然と眺める。




「・・・ん・・・・・・?何だい、これは。随分と冷めているじゃないか」



二の句が継げない。
冷めているのは当たり前で、それは今朝、紫呉がはとりの為に淹れたコーヒーなのだ。


カップの底に残ったコーヒー渣。
それを見ながら、紫呉は新しくコーヒーを淹れる旨を、
態と
突慳貪(つっけんどん)な口調で彼に伝えた。

短く息を吐くと、踵を返す。




瞬間―――



(あしおと)を消して歩くのは、君の癖なのかいっ・・・!?」



異常なほどに冷静な声が、背中に突き刺さる。
無論、答える義務などない。だが――・・・・・・





ざぁ、と一陣の風が吹き込んで、二人の間を通り抜けた。
風に押された窓掛が、大きくはためく。
窓辺で漣の如く裾を寄せては返す窓掛の間から、鎔鉱炉から流れ出る液体のような
曲がりくねった道路が見えた。



好奇心に溢れた、その一挙一動に興味をそそられるこの男は―――
自分が思っている程、馬鹿ではない。甘くもない。
苦し紛れに握った自分の手の平に、ジットリと汗が滲む。




眼は伏せたままで、紫呉は温めたサーバーの上にドリッパーを乗せた。
罐の中の黒い粉をスプーンで掬い、泡を吹いて沸騰しているお湯を螺旋状に注ぐ。
窓の向こうに映る変電所は、有刺鉄線に囲まれながら、湯気を上げて喘ぎ、震えていた。















香炉から漂い出る微かな芳香と、淹れたてのコーヒーの湯気が
周囲(あたり)に充満する。
彼が椅子に
()を沈めたのを確認してから、
紫呉は珊瑚のテーブルの上にカップを置いた。
先刻までの騒ぎは嘘のようで、やおら日常へと戻る。

方々の明かり窓から差し込む陽射しは、彼方此方に吸収されたり、反射したりしながら
微妙な色合いを織りなしていた。
油彩画の中に居る人物が、つうと視線を上げる。




「・・・とりさんと―――草摩はとりと、別れてくれないかい?」




来訪者は、紫呉が
端座(すわ)るなり名刺を差し出し、そう切り出した。
カップの中へ砂糖を入れると、部屋を満たす重苦しい蜜が、とろり、と濃度を増す。
今にも窒息しそうな―――そんな息苦しさ。






「それは―――はとりの意志?」



「いいや・・・僕の意思だっ!!」



張りのある 良く通る声だった。
暫し、沈黙する。
この男は―――何処まで自分のことを知っているのだろう。
紫呉は気を鎮め、記憶を反芻して熟考した。
そして、至極当然のことに気付く。




―――っ、取引は・・・?」



「失敗したよ―――君の所為でね」




「そう・・・・・・」


自分が恢復するまで殆ど付きっ切りで看病してくれていたはとりの姿を思い出す。
彼が家へ真っ直ぐに帰って来るようになったのは、
自分が倒れてからであった。
夜が更けても明かりの消えない、はとりの部屋。
はとりは恐らく自分の為に、会社を犠牲にしたのであろう。




「君は・・・何者だっ!?何の為に、何が目的でとりさんに近付く?」


容赦のない冷厳な声。
彼の―――云う通りなのかもしれない。
自分は操られ、ただ任務を果たすだけの
傀儡(くぐつ)だった。
自分の内には、明らかに自分とは別の意志を持つ存在が棲み付いている。
それでも、はとりはそんな慰み者の自分に善くしてくれた。
もう、良いじゃないか。もう、充分ではないか。
そろそろ、潮時なのかもしれない。




「解った。僕は此処を出て行くよ―――でも、一つだけ、君に頼みがある・・・・・・
はーさんに・・・はとりに、伝えておいて欲しい―――・・・




「承っておこう」







「       」





次の瞬間、紫呉は、自分でも信じられない程の穏やかな笑みを浮かべていた。
それは多分―――
泡沫(うたかた)の安らぎに対する感謝。





綾女がマンションを辞した後、残されたカップを片す。
紫呉が硝子戸を閉めるべく腰を上げると、
丁度ベンツのSELが、緩々と車の群れに合流する所であった。


堪え難いほど切なさは、優しさへと形を変える。




風は
蕭々(しょうしょう)と吹いた。
空を仰ぐと頭上では、太陽と重なるように一羽の白い鳥が、
遥かな空の高みをゆっくりと円を描きながら舞っている。
紫呉がゆっくりと息を吐き出すと、
哮哮(こうこう)という鳥の啼き声がして――――
白い微かな点は、蒼い色彩の中へと溶け込んだ。
































                         *


































自分が初めてはとりと出逢ったのは、今から五年前のことになる。




十年前、自分が所属していた会社の社長―――海原は、本田と盟友関係にあった。
だが当時、経済危機に見舞われていた本田グループの為に、
海原グループが三十億円に近い投資をしたことが、全ての失敗の始まりだった。




三十億円の投資が生きるか死ぬかの死活問題。
本田グループが必要としている手形決済資金を用立てることは可能であったが、
それが死に金にならないという保証は何処にもなかった。


綾女は本田グループの内情に通じている訳ではないが、それでも、金融機関から
入手した情報を分析すると、その経営状態は火の車だと思わざるを得なかったのだ。




だからこそ、綾女は後ろ向きの投資に応じることは、泥沼に足を踏み入れるようなものだ
―――そう、社長に進言したのである。
万一、本田グループが倒産すれば、それが引き金となって海原グループの経営も
揺らぎかねない。
経営基盤が強固な大企業なら兎も角、資本力の弱い会社が三十億もの投資を反古にして
安泰でいられる訳がない、というのが綾女の見解だった。



しかし、会社の重役は挙ってそれに反対した。
本田グループを救済することが何にも増して優先されなければならないと、
そう主張したのである。




綾女が彼らに対して不信感を増長させたのは当然だった。
一見、何の下心もないように見える人物の裏に、しばしば唾棄すべき行為が潜んでいると
いう事実を、綾女は決して見逃さなかったのである。


今から考えると、本当に海原グループが本田グループに資金援助を行ったのか
どうかすら疑わしいのであるが、結果的に援助をしたにも拘らず、
僅か半年足らずで本田グループは倒産した。


中間配当をするくらいの企業であったために、社長のショックも大きかったに違いない。
本田グループの倒産によって、海原グループの経営が傾くのは必至だった。
それでも、会社の生き残りを賭けた激しい競争の結果、海原グループは会社更生法の
適用によって、何とか更正する
機会(チャンス)を得たのである。




だが、度重なる記者会見や、社員集会での相次ぐ詰問で、綾女はすっかり倦み疲れていた。
海原社長はもう、過去の人であった。
華美(はなやか)な前途はもう、彼の前に横たわっていなかったのである。


最早、威厳も経営者としての矜持もない、名門企業を倒産へ導いた哀れな社長。
何かに付けて過去の栄光を振り返り勝な彼と対坐している綾女は、
自分の進むべき路を逆に引き戻されているような気がした。
綾女は彼の
道伴(みちづれ)になるには、余りに多くの未来の希望を
持ち過ぎていたのである。




―――俺の秘書になる気はないか?」




はとりから声を掛けられたのは、そんな時だった。
見上げた顔に、少し苦い微笑み。
誠実な人間の中にさえ多くの
気取り(ポーズ)があり、高潔な精神の中にも多くの不純が
あるということを、自分は知っていたつもりだったが――――
彼が一介な雄弁家ではないことは、一目見た瞬間、直ぐに解った。




「有能な人材を探している・・・」




先代の父親の事業を受け継ぎ、弱冠二十三歳で社長に就任した草摩はとり。
藍色の
玲瓏(れいろう)な光を湛えた瞳は、嘘を吐いているように感じられなかった。
そこには、自分の求めていた飄々とした自由があった。
ある種の冒険にも似た感覚が、胸中で蠢く。


口調こそ淡々としているものの、はとりの話す言葉の中には、重要な啓示さえ
感じられたし、何より、自分の能力を高く評価してくれる人の下で働きたいと
綾女が思うのは当然のことであった。

以後、綾女は侃々諤々喚きあっている連中に別れを告げ、出世街道を破竹の勢いで
突き進み―――はとりの最高のパートナーとなったのである。







あれから――――五年。

選りすぐりの人材によって構成された、草摩コーポレーションは、今や
世界に冠たる大企業にまで成長した。

現在、綾女は各専門分野のエキスパートから成っているこのセクションの頂点に立ち、
はとりの側近の中でも最右翼に位置している。

だから綾女は、はとりとパートナーを組んでいる以上、これまでどんな些細なことでも
独断で行動することは避け、重要なことは常に二人で相談することを
鉄則としてきたのであるが――――
はとりに無断で彼の私生活に口を挟んだのは、今回が初めてだった。




何の変哲もない、かなり濾過された弱々しい夕陽は、閑寂としたオフィスの日常を
何時もと同じように
温温(ぬくぬく)と、冴冴(さえざえ)と際立たせている。
窓掛は静かに垂れたままで、微動だにしない。
風は凪いでいるというのに、綾女の心は
騒騒(ザワザワ)と落ち着かなかった。
母親譲りの長い銀髪を片手で掻きあげ、吐息雑じりの溜め息を零す。




あの男に会った時、何故か久し振りに、過去の匂いを嗅いだような気がした。
疾うの昔に捨てた筈の匂い―――
それは自分にとって、三分の一の懐かしさと、三分の二のほろ苦さを齎す混合物だった。



正面の壁に掛っている時計の針は、丁度、五時を過ぎた辺りの刻限を指している。
綾女は
(かぶり)を振ると、稟議書に印を押して立ち上がった。
ただ黙々と机に向かっている部下に声を掛け、部屋を出る。

小さなカラー・タイルを使って壁一面に描かれたフランスの田園風景は、
己を嘲笑するかのように、広がっていた。










エキゾチックな幾何学模様の厚い絨毯が敷き詰められた廊下を、社長室に向かって歩く。
廊下の照明は、それこそ一流ホテルの如く、ルクスが絞られていた。
その淡い光が、仕事で疲れた綾女の心身を和らげる。
この仕事は好きだし、自分の性に合っていると思う。だが―――



―――詰まらない。



僅か五年の間に、時代は大きく変わった。
躍進する科学に、革新的な技術。
時代は目にも留まらぬ速度で変化を遂げ、夜は眩しく、人は賢く、未来は明るく
なって行く。
配信されるデーターから酌めることだけが、真実の世界。
それを素直に素晴らしいと感じることが出来ない自分自身が詰まらないのであろうか。




ドアの前に立つと、綾女は素早く社員暗証番号を押した。
電波特有の音が、鼓膜を打つ。
中廊下の向こうには二つ目のドアがあり、その向こうに社長室があった。

ノックなど必要ない。
彼が部屋に居ることなど解っている。
遠慮無く扉を開けると、案の定、窓を背にした大きな執務デスクの前に、
はとりは座っていた。


部厚い本が整然と並んだ書棚。
その右側の壁には、数十種類の外国の洋酒が置かれてある。

何度も推敲を重ねた結果なのだろう。
はとりの持つペンは欠片の躊躇いも迷いもなく、常に一定の速度で
紙上に文字を刻んでいく。紙を捲る小さな音が部屋の中に、響いた。




―――とりさぁぁんっっ!!」



叩きつけるように、稟議書をデスクの上に置く。
紙上を滑るペン先がつい、と止まった。
ずり落ちかけていた眼鏡の中蔓を押し上げながら、はとりが顔を上げたのが
気配で解る。



「・・・稟議内容は?」



「知らないよっ!!知りたくば、自分で読み給へっっ!!!」



「・・・・・・」




一瞬、端正な顔が苦渋に歪んだような気がしたが、綾女は敢えて素知らぬ振りをして
視線を逸らす。所詮、型通りの報告など、無意味なのだ。
はとりの視線が稟議書の上に落ちる。



「・・・無駄な予算じゃないだろうな・・・・・・」



渋々それに目を通したはとりは、社長印の欄に決裁印を押すと、
稟議書を指先で軽く押した。
机の上を滑る稟議書が、綾女の躰に当たる。
憎まれ口を叩きながらも、彼の決裁印の押し方には、起案者である綾女への
信頼感が溢れていた。それは、社長側近としての―――自信。



だが――――



「・・・今日、とりさんのマンションへ行った・・・・・・彼は―――出て行ったよ」



綾女は、その稟議書を横へ除けた。
話に本腰を入れる姿勢を示す。

その些細な動きで――――
部屋の空気の流れが、確かに変わった。




―――何故、勝手な真似をした!?」



鋭い眼光。はとりの真っ直ぐで秀麗な眉には、力が籠っていた。
立ち上がるとその反動で、漆黒の髪が揺れる。毛先が、宙に舞って―――
突き刺さるような視線が一直線に注がれ、綾女を射抜いた。



―――っ!!とりさんだって・・・・・・もう、解っているんだろう!?
彼がとりさんに近付いてから、会社の周囲で不可解なことが発生してる・・・・・・
最新プロジェクトの情報や機密事項が、漏洩している可能性だってあるんだよっ!!」



「そんなことは起こっていない。お前には・・・・・・関係のないことだ」



眼は綾女を捉えたままであったが、その顔からは血の気が引いている。
拳を握った両肩が、小刻みに
(ふる)えていた。
彼は―――はとりは今、多分、怒っている。

だが、今此処で退く訳にはいかない。
畳み掛けるような口調で、綾女は叫んだ。



「関係なくなんかないさっ!!上に立つ君が仕事に私情を挟めば―――
経営が傾いて、何万人もの社員が路頭に迷うことになるんだっっ!!」



衝動とはいえ、こんなことを口走ってしまうとは、自分の気分が低迷している
証拠なのかもしれない。

綾女は、これまではとりの偉業を謳歌してきたつもりだった。
はとりは自分にはないものを、持っている。

勤勉で、どんな時にも判断を誤らない冷静さ。
強靱で凄みのあるカリスマ性こそないものの、温和で誠実な性格は多くの社員から
信頼を受け―――はとりは、人の上に立つのに充分足りる存在だった。
だからこそ、会社を此処まで成長させることが出来たのだろう。
そして綾女は、知的で読書や音楽、美術にも造詣が深く、何より人間味溢れた
はとりの眼差しが―――好きだった。


はとりの口から、溜め息のような言葉が洩れる。




―――珍しいな・・・
綾女(おまえ)が正論を云うなんて・・・・・・」



「茶化さないでくれ給へっ!!とりさんっ―――



没落して行く会社を見るのは、もう二度と厭だった。
正面に立つ男の暴走を止めるために、真っ直ぐと睨め付ける。


綾女はその見事な銀髪と、何物にも囚われず悠然と商談を進めることから、
「白い蛇」の異名を持つ者として財界に知られていたが――――
はとりもまた、その穏やかな風貌の裏に、大実力者としての烈々たる激情を
隠し持っているところから、「黒い龍」の異名を持っていた。



黒い龍と白い蛇の対峙。瞳に漲った強い光。
禍々しい空気で満ちたその部屋が、更に濃さを増す。




―――如何して、彼を庇うんだ!?悪いけど、彼について調べさせて貰ったよ。
とりさん。彼は、あの男は―――――!!!」



「云うな!!云わなくていい!!!もう、いい・・・もう、いいんだ綾女・・・・・・
これは、俺のエゴだ。俺は・・・失格なのかもしれないな。経営者としても。人間としても」



―――っ、とりさんっ!?君は真逆、知って・・・・・・」


返事は無い。
だが、見上げたはとりの瞳は憂いを帯びていて―――
綾女は何だか、如何しようもなく、哀しくなってしまった。



「そんなに・・・そんなに、彼が大切なのかいっっ!?」



刹那。


綾女の脳裏に彼の姿が浮かぶ。
影絵を見ているような、儚げな光景。
実体を持たぬ幻影の
(だま)し絵が、此方を振り返った。



―――はーさんに・・・はとりに、伝えておいて欲しい。
今まで、ありがとう、って・・・・・・


そう云って微笑んだ男の瞳の奥には、自分を越えて、鮮やかに、
はとりが映っていた。

断ち切れない因縁。逃れることの出来ない過去。

男は何を想って、笑ったのだろうか。
思わず、自分を見失いそうになる。





「・・・彼に、頼まれたんだ。君に、『今まで、ありがとう』と伝えてくれと――――



その瞬間、はとりの顔色が、変わった。
すい、と自分を追い越したはとりの後を追い、綾女は扉の前に、立ちはだかる。



「そこを退け―――綾女」


余りにも静かな、威嚇。
こんなに余裕のないはとりを見たのは、初めてだった。



「・・・いや・・だ・・・厭だっ!!駄目だよ、とりさんっ!!此処は通さないっ!!」


躰を弾ませるように、綾女は精一杯、両手を広げる。


―――否、通せないんだ。仕事へ戻ってくれ。
キミの助けを必要としている人は、僕以外にも大勢いる。
如何してもというのなら――――僕を解雇してから行き給へっっ!!!」



「綾女―――済まない」



黒龍は大きく翼を揺らせ、綾女の横を擦り抜けた。
綾女の大嫌いな過去の香りが、鼻腔を掠め―――
同時に、はとりの口から、解雇が告げられる。

嗚呼。矢張り、はとりは―――彼を選んだのだ。
始めから勝算など無いと解り切っていたのに――――




はとりが立ち去ってからも綾女は、その場に立ち尽くして居た。
戸外(おもて)で吹く風は、果敢なき現世(うつしよ)を一瞬にして薙ぎ散らす。
心を閉ざした白蛇は、そのまま
悠寛(ゆっくり)と頭を()れた。