妬心
風が死に尽して秋を終えた冬の日に、
俺と紫呉は或る約束を交わした。
初雪が降ったら逢おう、と。
たったそれだけの約束が曖昧な己を支えているなんて
恐らく、あの鈍感な悪戯者は知らないだろう。
彼が思っている程、自分は決して強い男ではないのだ。
振り仰いだ空は暗く重くて、今にも落ちてきそうな灰色をしていた。
俺はその黒でも白でもない中途半端な色が嫌いだった。
胸が詰まるような息苦しさの中、あてもなく彷徨っていると
木枯らしに混じって白いものがちらつき始めた。
道理で寒い筈だ。
全身が冷え込みそうな孤独を抱えて歩いていると、
裏通りの小路を折れて直ぐのコンクリート塀のところに、
男が二人立っているのに気付いた。
明確に解るわけではないが、着物の色と帯の結びから
その内の一人が紫呉であると云うことは容易に知れた。
鼻緒の色までは解らないが、何時もの草履を穿いていて
鮮やかな白い足袋が目に付いた。
もう一人の男は血色の良い、どちらかと云うと
平凡なサラリーマンタイプに見えた。
小さな目は心持斜視で、その奥には油断ならぬ光が宿っている。
紫呉の唇に浮かぶのは、柔らかい微笑。
それが仮面の笑顔であることくらい直ぐに気付くが、
どうも相手はそう受け取らなかったらしい。
肩を引き寄せて耳許で何かを囁くと、男は楽しそうに
紫呉の手を握った。
細い線で描かれた面輪に、一筋、朱の色が刷かれる。
刹那、忽ちに顔が曇り、俺は自分の中が黒でも白でもなく
灰色で満たされていくのを感じた。
意識が誘蛾灯の如く冷めた白い光に誘われている。
限界を超えて溢れ出した苦しみは、感情だけでなく
躰をも巻き込んで己を押し流した。
酷く激昂したまま、大きく足を踏み出す。
俺は灰色の眼差しを男に向け、これ以上ないくらいの
冷ややかな笑みを浮かべると、相手の双肩を掴んで壁に叩きつけた。
悲鳴染みた声を上げたのは、意外にも紫呉の方だった。
「はとり…っ!!!」
着物の袖が空へ舞った。
渾身の力で締め上げている腕が、取り縋るように哀願してくる
紫呉の力に屈し、じわりじわりと引き剥がされ始める。
すっかり動転した男は、俺の手を汚らわしいもののように振り払うと、
微かに蔑みを唇に浮かべ、逃げるようにその場から去った。
荒い呼吸を繰り返しながら睨め付けてくる紫呉の視線を、
無粋な顔で受け止める。
「僕の作家仲間になんてことするのさっ!!
非道いよ。はーさんの莫迦ッ!!!」
「莫迦はお前だ。俺は認めないと云っただろう。
お前に酒を飲ませて朝帰りさせた奴なんて――」
「は…?何それ。何も無かったって云ったじゃない!!
君もしつこいよ。それとも何?その歳になって妬いてンの?」
一度堰を切った言葉の奔流は、そう簡単に収まらない。
冬の空は相変らず厚い雪雲を侍らせたままで。
吹き荒ぶほの白い風が膚を弄った。
舞って散る儚い粉雪とは異なる白い棘が肌を刺す。
だが、この厳しさこそが、季節の本当の貌なのだ。
「男の嫉妬は醜いよ、はとり」
薄い笑みと共に呟かれた歪んだ言葉が、白い息と共に掻き消えた。
俺は暫し呆気に取られてその怜悧な面を眺めていたが、
間を置かずして込み上げてきたのは、この理不尽な仕打ちを憤る
猛烈な怒りだった。
悔しさも哀しさも、切なさも遣り切れなさも、全てが混沌としている。
今、目の前にいるこの男は、全てが自分が愛されているために
起こっている出来事だと云うことに気付かないのだ。
こんな形でしか自分の感情を伝えられないのなら、
こんな惨めな愛し方しか出来ないのなら、いっそ、俺は全てを諦め
遠く離れた場所から彼を支えてやった方が良いのではないだろうか。
雪は、彼の微笑を流し去ろうとしている。
「俺たちは別れた方がいい」
躊躇いもなく口を突いて出た言葉に
一瞬、紫呉が息を呑んだのが解った。
自分でも驚く程の強い視線。
眸を、淵の底よりも暗いものが覆っている。
短い沈黙の後、先に口を開いたのは紫呉だった。
「だったら…如何して、そんな顔してるのさ?」
躊躇った末、意を決して問うたという表情。
その声は微かに掠れていて、咄嗟に見た顔は酷く物憂げだった。
こんな紫呉を見るのは初めてで。
裏切られても欺かれてもそれでも尚、お前を信じたいのだと
そう切実に訴える想いが、胸の裡を激しく粟立てる。
「顔…?」
「気付かないの?今にも泣きそうな顔してるよ」
零れた息と共に語りが途切れた刹那、俺の額に触れた紫呉の指に、
一瞬、強張りが走った。
それは、彼の心の震えの証だったのかもしれない。
「…ごめん、ね。でも、さっき雪が降った時
一番最初に思い浮かんだのは…」
君の顔だった、と。
俺を見詰める紫呉の瞳が、揺れた。
「離れたくないよ…はとり」
彼は、忘れてなどいなかった。
心の底に蟠っていた暗い不安が漸く、晴れた。
紫呉の心の軌跡を辿りながら、彼の取った行動を愚かだと罵った
己を叱咤する。
逆らい難い哀しみとその切ない胸の裡を知れば、
後にはただ、何ものにも代えがたい愛おしさだけが胸に滾り、迸った。
風の中に混ざっている白い破片を掬い取ろうと手を伸ばす。
「…離れられないのは、俺の方だ」
やっと振り絞った言葉の語尾は、空に混じるように拡散した。
雪は白い落書きのように舞っている。
開きかけた紅い唇を、もう黙れとでも云うように
無理やり塞ぐと、俺は強く紫呉を抱き寄せた。
切なげな吐息を漏らす唇をじっくり味わうように揺れ動かすと、
その動きに応えるかのように、紫呉が舌を絡める。
ゆらゆらと世界が揺籃のようになった。
「…ん、っ…ふ」
緩緩と開けた黒目が漆のような艶を帯びて、
次から次へと色気が零れてくる。
悪かったのは自分なのだと。
今ならこの温もりの中で素直に伝えることが出来るだろうか。
沁み出した想いばかりが胸に積もって、如何にも辛い。
鉛に霞をかけたような鈍い色の天から降り続く
白いというには淡過ぎるそれは、真冬の風に隠れるようにして
音もなく街全体を包み込んでゆく。
この雪はやがて、何もかもを覆い尽くすであろう。
来るべき新しい年と、愛すべき者のために。
了
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