幽玄
車のヘッドライトを消して外へ出ると
そこは既に夜の帳が下りていた。
月はまだ、ない。
夕雲の払われた空は、墨を刷いたような深い色に変わっていて。
やがて月が昇る兆しなのか、夜の色を透かして青く朧に輝く光があった。
「おい紫呉。起きろ。着いたぞ」
シートに凭れ、穏やかな寝息を立てている紫呉の頬にそっと手を触れる。
途端、ううん、と眠そうな声を上げて紫呉が身動ぎした。
まだ夢現の状態なのか、焦点の定まらぬ視線が向けられる。
俺はゆっくりと躰を落とし、紫呉の顔を覗き込むようにして云った。
「運転している俺の隣で眠るとは…良い度胸だな。
顔に落書きでもしてやろうか?」
その言葉に紫呉の片眉がピクリ、と反応する。
「あはは。遠慮しときマス。それにしても……
前にキミが僕の隣で寝てた時、額に"肉"って書いたこと、まだ根に持ってるの?
はーさってば、意外に執念深いのねぇ…」
ほんのお茶目な悪戯なのに、と云って苦笑した紫呉は
諦めたように立ち上がった。
着物の裾が夜風に翻り、草の穂を叩く。
二人で肩を寄せ合い、こうして川辺を歩くのは久し振りだった。
川は黒々として、静かにたっぷりと流れている。
瞬間――
叢の向こうで、淡く、何かが発光した。
「……蛍だ」
遠慮がちに放つ蒼白い光に吸い寄せられるかのように、
紫呉が俺の腕を擦り抜けた。
上へ、下へと、綾を織り成し、時にそれらは交わりながら、
幻想的な光の曲線を描いている。
「すごい。やっぱり来て良かったよ…はとり」
目の前で繰り広げられる朧な光の揺らめきに
紫呉の声は陶酔した響きを含んでいた。
妖しく瞬きながら、煌々と光を放ち夜の大地を照らし出す無数の蛍に
魂をもっていかれそうになる。
「あぁ…そうだな」
深い闇から浮かび上がる蒼い明かりは、現にあって見せる幻のよう。
幾千もの光が、闇を緩々と剥ぎ始める。
その時。
一匹の蛍が弱い光を曳いて、鼻先を掠めた。
幻のようにふうと現れた蛍は、仄白く光ったまま何故か高い処を飛んでいて。
それを見ていた紫呉が、躊躇うように呟いた。
「前に本で読んだことがあるんだけど……ね。
蛍って寿命間際になると、高く、高く飛ぶんだって。
自分は此処にいるんだと叫びながら、精一杯光を放ち続けて
そうやって死んでゆく蛍は…淋しいね」
紫呉の横顔が、闇に沈む。
暫く静寂の破片を握り締めていると、
ゆっくりと振り向いた顔が、俺を見て哀しげに曇った。
躰の奥底から逆流して突き上げてくるのは、
胸が締めつけられるような、息が詰まるような
言葉に出来ない感情。
指を、そっと髪に触れる。
「この世に生きとし生けるもの、全てに限りはあるさ」
天は蛍にあまりに短い時しか与えようとしない。
だがそこにきっと意味があるのだと、吸う息も吐く息も止めるように
接吻ると、紫呉の瞳が仄かに揺れた。
闇が、震える。
天高く幽玄の世界へと誘う蛍は、やがて星の深い色に同化した。
了
|
|