2018年9月22日更新


新宿書房・村山恒夫「追悼 室野井洋子」
福間恵子「室野井さんのこと」
木太仁美「室野井洋子さんに向けて」
林央人 「室野井洋子さんによせて」
福間健二「そうかなあ」
知久寿焼「にせおねえさん」

.

追悼 室野井洋子  新宿書房・村山恒夫

踊る編集者
室野井洋子さんが亡くなった。それもほんとうに急なことだった。
この数年、毎年春の4月か5月に、紀伊半島は熊野古道の近くに住む作家の宇江敏勝さん宅で、室野井さんはきまって京都から、私は東京から駆けつけ、「民俗伝奇小説集」(既刊6巻、造本=鈴木一誌)のその年の目次構成の検討に入るのが、いわば慣わしになっていた。 今年の会合も予定通り、4月1日から2日、宇江宅での編集会議。ふだんと変わらない彼女だなと、私にはそう見えた。私が帰ったあと数泊延長して、帰りのLCC便を待つことも、例年と変わらない。しかし、宇江夫妻によれば、朝の散歩もしなかったようで、「結局体調不良のまま、外に出ず仕事をしました。」(4月13日のメール)。
5月24日に「民俗伝奇小説集」新刊第7巻『熊野木遣節』の原稿整理をすませ、原稿データを送ってきてくれた。翌日25日のメールでは「二、三日前から話すと咳が止まらなくて、電話ができないのです」。
5月29日にテキストのチェックの後、組版の原島康晴さんの手にわたり、6月1日には初校出校。ようやく病院に行ったようで、6月2日には入院して処置をしてもらい、「うまくいけば来週には退院して普通にくらせるよていです。」(6月2日)とメールが。そして「集中力がない、初校校正はパス、再校でふたたび参加する」という電話がきた。それでも、6月13日には律義にも詳細な「用語統一表」を送ってきてくれた。
退院後、階段のない、一階の部屋に引っ越す、ついては私に保証人になってくれという。ほどなく、「東京だったら吉祥寺の外れみたいなところに引っ越しました。」(6月15日)とメールが来た。
それから、ふたたび音信不通になり、心配になる。6月30日に再入院したことをあとで知り、高橋幾郎さんから7月3日に主治医から詳しい説明があるとの連絡があったが、翌4日の朝、「昨晩9時49分、亡くなりました。肺癌でした。」とのメールをいただいた。
告別式は7月6日の午後2時から、札幌市の山口斎場(JR手稲駅近く)で行なわれ、札幌の友人たちおよそ30人と、横浜からお母さん、お姉さん、姪の3人の家族とパートナーの高橋幾郎さんに見送られ火葬された。生花や宗教的な儀式は一切ない、清い告別式だった。ここで私はブラジル在住の田中トシさんに久しぶりに会うことができた。
室野井洋子さんは、1958年8月25日生まれだから、亨年58ということになる。私が1980年に平凡社をやめ、ほぼ休眠状態だった新宿書房を譲り受けた翌年の82年に知人の紹介で初めての社員として入社した。編集者として最初に担当したのは、如月小春さんのデビュー作の『如月小春戯曲集』(1982年、装丁=赤崎正一)。爾来、如月さんの数々の本は室野井さんの手から産まれ、その仕事は昨年2016年12月、如月さんの没後16年を記念して出版された『DOLL/如月小春精選戯曲集2』(装丁=赤崎正一)まで続いていた。
室野井さんは3年ほどで新宿書房をやめて、軸足をダンス(舞踊)の方に移したが、しかし、フリーとしてずっと新宿書房の編集・校正を手伝ってくれた。踊る編集者の誕生である。
1985年に出た、当時の写真植字メ―カ―の大手、写研から出版された『文字の宇宙』(構成=杉浦康平)の編集校正にも、室野井さんと私は参加させていただいた。
室野井さんは、矢川澄子さん(1930~2002)にとてもかわいがられ、信州黒姫在住の矢川さんの東京宿としてあった、杉並の阿佐ヶ谷の家で一緒に住んでいたこともあった。矢川さんのエッセイ集『風通しよいように…』は、1983年刊行(装丁=渡辺逸郎)だが、矢川さんの発案で「十二支の物語シリーズ」は、1987年に第1巻『兎をめぐる十二の物語』(装丁=鈴木一誌)から始まった(これは、龍、蛇、馬、羊、猿まできて中断、結局未完に)。矢川さんの死後発刊された『ユリイカ』(青土社)2002年10月臨時増刊号「特集 矢川澄子」は、室野井さんが残した優れた仕事だと思う。

山の作家・宇江敏勝さんの最初の本は1983年の『山に棲むなり』(装丁=吉田カツヨ)で、著作はのべ20冊を越えている。他に印象に残るのは、蘆原英了の本(装丁=田村義也)、『大地のうた』『プラハ幻景』(装丁=中垣信夫)、『エヴァの時代』(装丁=早瀬芳文)、『見世物稼業』『見世物小屋の文化誌』(装丁=谷村彰彦)、『S先生のこと』(装丁=杉山さゆり)、斎藤たまの本(装丁=伊藤昭、鈴木一誌)、黒川創の翻訳書や著作(装丁=南伸坊、平野甲賀)、などなど。
最近は、新宿書房の仕事以外はあまりやっていなかったという。どうやって暮しているのかしらと心配したこともあった。
室野井さんのダンスの経歴は美学校のサイトを参照のこと。http://bigakko.jp/course_guide/aess/dance_info
また、2000年から住まいを札幌市に移し、古本屋を始めたこともあった。そのいきさつは新宿書房のHPのブログに残っている。http://www.shinjuku-shobo.co.jp/…/data_old/mur…/muronoi.html

室野井洋子さん、長い間、助けてくれてありがとう。
2017年7月10日

PS:室野井洋子さんが出演した福間健二監督の2作品:
   http://movie.walkerplus.com/person/120303/

冊子「追悼 室野井洋子」(2017年12月)より再録

.

室野井さんのこと 福間恵子

 室野井さんと初めて会ったのは、一九八七年だったと思う。野口整体が動法を始めてまもなくのころに、国立の稽古場で出会ったはずだ。そのころわたしと夫が住んでいた国立市東の、二階建ての二軒長屋の家に遊びにきたときの、彼女の表情をよくおぼえている。玄関でまぶしそうに二階を見上げて、いいとこだね、と笑顔で言った。たしか秋だった。その長屋はすぐに立ち退きになり、その後国立のなかを三回引越しをして、いまの家にもう十七年も住んでいるが、四つの家のいずれにも彼女は何度も来ている。三つ目の家では、わたしと夫がウェールズに一年間暮らした間の留守番もしてもらった。

 一九九二年五月末から二か月間、わたしはスペイン・バスク地方の小さな村に滞在した。室野井さんはちょうど六月半ばから、矢川澄子さんとドイツ・オーストリアなどを旅する予定があったので、ならばその足でぜひバスクに来て、と約束していた。六月三十日、彼女はパリからTGVで国境を越えて、バスクにやってきた。
 当時わたしは日本語をまったく使えない生活に疲れきっていたし、室野井さんは旅の「お供」から解放されて心底ほっとしていた。いいタイミングだった。だから五日間を思いっきり遊んだ。室野井さん三十四歳、わたし三十九歳だった。

 食いしんぼうで呑んべのわたしたちは、当然ワインと美味しいものを目的にした。タクシーの運転手をやっている友人コンチが「友だち割引」でワインの産地と漁村を案内してくれた。若くて明るいコンチは「ヨーコ」をすっかり気に入った。ヨーコは、わたしとコンチのスペイン語の会話を、すぐさま理解できるようになり、バルの「チンジャラゲーム」で大勝ちして、夕食代を稼いだ。「ヨーコは天才だ!」とコンチは連発した。大小のワイン蔵を訪ね、コンチがわたしたちのことを「スペインワインの本を作っている日本の編集者」と紹介し、希少なワインを原価で入手した。三人で笑いころげながら、起伏に富んだバスクの田舎をめぐった。  標高千メートルの断崖の上に広がる美しい高原にも行った。そこはフランコの時代に、反逆者たちがこの崖から突き落とされて処刑された場所だと言われてぞっとしたが、どう見ても桃源郷そのものだった。そこを吹く風に髪をなびかせているヨーコを「妖精みたいだね」とコンチが言った。
 ヨーコがパリに戻る日、フランス側国境の町まで見送りに行った。わたしたちは、列車の時間まで小さな町を何周もした。TGVに乗りこんだヨーコに手を振ると、さびしさがこみあげた。それから二、三日してヨーコから手紙が届いた。あの日パリの駅のホームで、日本に持ち帰るはずの希少なワイン三本を落として見事に割ってしまったというのだ。
「恵子さんが帰国するときも、きっとホームに赤い染みがあるから探してね」。
 ホームにワインを落として絶句し、しばらく呆然として、しかしそのまま何もなかったかのようにすまして立ち去っただろう室野井さんの姿を、わたしは心の中で映像化して、いまでも目に浮かべることができる。

 このときから、室野井さんとわたしの距離はぐんと近づいたと思う。どこかであこがれを抱いていた「舞踏家」室野井洋子が、わたしと同じ地平で生きている人間でもあることを実感できた時間だったのだ。

 それからはよく手紙を交わした。彼女がまだ高円寺に住んでいるころから札幌に移ったのちの十数年にわたって、またメールが手紙にとって代わる時代になっても、気が向けば手紙だったりもした。お互いに手紙好きだったこともあるだろう。彼女のあの独特のころっと四角っぽい字のならぶ手紙は、わたしの宝ものである。
 お互い海外にいても、ひんぱんに手紙のやりとりをした。室野井さんは一九九五年六月に、十日間のイタリアツアーにお母さんを連れて参加している。ツアーが終わってお母さんを見送って、ひとりになって「これから貧乏旅行だ」と、初めてイスタンブールを訪ねた。この旅の間に三通も便りが届き、文面からは開放感と心細さが伝わる。その後の海外公演や旅行のことを考えると、バスクにひとりでやってきたことも含め、室野井さんのひとり旅のはじまりのころの心情がうかがえる。一九九七年の、ノルマンディー滞在〜パリ公演〜ブラジル公演〜イタリアWSの半年近くの海外生活のときも、たくさんの手紙が届いた。どれもこれも、食べもののこととお金のこと、そしてたわいもない日常のことがつらつらと書かれている。そのなかに室野井さんならではという、世界をナナメに見た言葉がぽろっところがっている。そこに一番の真実があると読んでいた。このときに、サンパウロからパリに戻ってイタリアに行くまでに十日ほどフリーの時間があるから、ぜひ遊びに来てと誘われていた。パリで滞在するホテルの住所もFAX番号も書いてきた。彼女がどんな思いで誘ってくれたか。「外国のひとり」の自由と孤独を体験した身には痛いほどに伝わっていたが、どうにも都合がつかなかった。

 そののち海外での公演やWSが増えて、高橋幾郎さんと札幌に暮らすようになってからも、連絡がとだえることはなかった。東京には毎月来ていたが、一年に二回ほど「恵子さんの料理を食べに行く」と計画して、自家製のパンと北の魚を持ってきてくれては、わが家で飲み食いした。わたしと夫は、六〜七年ほど前から室野井さんと高橋さんの料理をめあてに札幌に遊びに行くようになった。かつてに比べれば、会う回数は減っていったが、近くにいた人が遠くに行ってしまったという印象はまったくなかった。不思議なことだった。つきすぎず離れすぎず、ほどよい距離を保ちながら、だからこそ三十年もつきあってこれたのだと思う。

 ふりかえれば、室野井さんはいつもこの世界の「どこか」にいて、時空を超えて友人たちの前に現われる。そんな存在だったのかもしれない。ぎこちなく野菜を切って料理をしたり、カチカチとあごの骨を鳴らしておいしそうに食べているときは地上の人であり、ひとたび舞台に立てば天上の人だったのかもしれない。

 二、三年前から、札幌から送られてくるメールにはいつも身体の不調が書いてあった。それを「変動」と受け止め、そこに身体のどんな要求があるのかを自分に問うていた。わたしは自分の「変動」と比して、彼女のそれはもうすこし大きいものだ、ぐらいに軽く受け止めていた。  二〇一七四月十六日、韮崎での高橋さんとふたりの公演の帰り、わが家に来てくれた。この日程もいつものように前もって決めて、料理のメニューも伝えてあった。この日の室野井さんは顔色がよくなかった。料理もワインもいつもの半分ぐらいだった。でもそれは、公演と車の移動で疲れているのだろうと思っていた。「恵子さん、作りすぎ」と叱られた。

 四月も五月もわたしたちは、ふつうにメールを交わした。おいしいものを食べたい意欲は十分あって、また天然酵母を作ったとか、お花見のとき奇跡的にひとりで白ワイン一本空けたと伝えてきている。五月二十六日の東中野での「福間健二映画祭」に「身体が大丈夫だったら、絶対行きます」と書いている。けれども「とにかく、寝込まない、病人にならない、をこころしてます」とあるのを読んだとき、悪い予感がした。そして、五月末の美学校WSを休んだ、東京に来れなかったと佐々木仁美さんに聞かされて、わたしは茫然となった。

 そこから一週間後の六月四日、「五月二十五日から検査入院して、ひとつ手術した。明日結果が出るからまた連絡する」というメールを受け取った。「おどろいている」と返事したらすぐに電話があった。落ち着いていたが、声に力がなく苦しそうだった。肺にたまった水を抜く手術だったとのこと。今の住まいは二階なので階段が上れないから、引っ越しの準備をしていると。手伝いに行くと約束した。
 一階のアパートが決まり、とりあえずの引っ越しが終わった翌日六月十五日にわたしは札幌に行った。室野井さんは、すでに腹水がたまっていて足のむくみもひどかった。痛みが激しくてモルヒネも服用していた。それでも、頭はしっかりしていて、目の輝きもあった。いまの自分の生活に必要なものと、これから自分がやるべきことを書きだしていた。滋味のあるものを、すこしずつだが食べた。「寝込むこと、病人になること」と必死に闘っていた。高橋さんはそれをひたすら支えた。札幌の友人たちは昼夜を問わず訪ねてきて、あらゆる面で助けてくれた。わたしは、買い物に走り、室野井さんが食べたいものを作り、部屋の片づけをした。
 まわりのだれもが、室野井さんの命がもう長くはないことを感じていたが、彼女の強靭な生きる意志に、奇跡を思い描いた。六月十九日、わたしは東京での仕事のために帰らなければならなかった。七月初めにまた来ると約束した。これが地上の室野井さんとの最後になるかもしれない、その思いをかき消しながら札幌をあとにした。

 六月三十日、高橋さんから再入院の知らせが入る。七月四日午後のフライトを予約した。三日の朝、高橋さんが電話で危篤を知らせてきた。四日のフライトを朝一番に変更して、それまで待っていてくれと祈った。夜、高橋さんからメールが入る。「二十一時四十九分、しずかなさいごでした」。
 四日十時半、すでにおうちに帰っていた室野井さんに対面した。やさしい顔をしていた。鳩尾あたりにそっと手を置いて愉気すると、心なしかすこし明るい顔になった気がした。翌五日、札幌市の西のはずれにある超近代的な斎場で、室野井さんは骨になった。

 室野井さんにとって札幌の十七年間は、日常を生きることと自分が追及した表現とがうまく融合して、彼女の人生で一番ゆたかな時間だったのではないだろうか。六月と七月の予測もしなかった札幌とその後の時間をとおして、深く感じたことだ。

「通夜」の夕方から札幌の友人たちがお別れにきた。かつての荻窪・天沼組も東京から飛んできた。アパートに入りきれないほどの人になった。みんな帰らない。泣いている。高橋さんは室野井さんが好きだった音楽を流している。
 ああ、室野井さんはここ札幌の地で、幸せだったのだという思いがこみあげた。ひと月の半分近くを札幌を離れて暮らしていたとしても、彼女の生きる場所はここだったのだとあらためて確信した。高橋さんとともに生き、多くの友人たちに慕われた。それがひしひしと伝わってきて、悲しいはずのわたしはうれしかった。
 札幌に暮らしてからの室野井さんは、料理の腕を格段に上げた、と思う。もともと才能があったからこそだが、かつてパイやキッシュを作っていた頃とはちがうものが開花した。彼女は、実のある真面目な食べものをつくった。「ヒマはあるけどお金がない」から素材と真剣勝負した。人を招いた。人のために料理を作ることは幸福なことだと思った。きっとそうだ。そのことが、彼女の人生にふくらみを与えた。そう思う。

 わたしは一年に二回か一回、室野井さんのために料理を作ることがとても楽しみだった。すべての料理のメニューと集まった人の記録がある。それを読み返しながら思い出している。初めての料理を口に入れて「何これ!」と、目を丸くしてニコニコする室野井さん。あなたの「おいしい!」は「何これ!」だったよね。

冊子「追悼 室野井洋子」(2017年12月)より再録

.

室野井洋子さんに向けて  木太仁美

室野井さんが舞台に立つと豊かな空間が現れる。ただ広いというかんじではない。どちらかというと吸い込まれるような背後に奥行きがたっぷりある空間。そして時間の流れが自在になる感じが生まれる。その世界に立ち会えなくなったのは、淋しい事である。
交流の始まりは1991年国分寺のギャラリーでの公演『花を見るな』を観に行った頃から始まった。その頃一人稽古に限界を感じていた私は、室野井さんの気概ある踊りに魅力を感じ「一緒に稽古してもらえませんか」と申し出る。了解を頂き月二回程であったか数年間踊りの稽古を共にさせてもらった。当時は踊る傍にいると周りの空気から思わぬ緊張が伝わってきた。以来20数年間私にとってつねに先達者であり師であり稀有な友人であった。
その後室野井さんは三鷹でワークショップを始め2002年には神田の美学校に拠点を移し、門を広げて2017年3月までそれは続いた。長年月一度美学校に行くと彼女に会えた。
年月を重ねて2009年参加メンバーによる「季節舞踊る身体のかたちの会」として計6回いろんな季節に公演を行った。室野井さんはダンスに対して誰よりも熱く、照明を担当したりリハーサルの指導に当たった。リハーサルの稽古は個別レッスン。個人がやろうとしている事はそのまま大事にしてくれたが、体の使い方となると容赦なく楔が入る。ときに舞手にとっては革命が起き翻弄される事もしばしば。リハーサルから本番を通しての一連の体験は懐かしい。一方動法の稽古にも参加させてもらったが、ある頃から型を取る後ろ姿に凛々しい品格が出てきた。そして一筋縄ではいかない多様で繊細な趣を放つようになっていった。
2016年10月呼吸器の調子が悪そうだった。11月12月とワークショップはお休みになる。年明けて1月再開初々しい顔色のよさで(復活した、強いなぁ)と思えた。私はひとつ年上なのだが、この時60代も共に過ごせるのではと密かに楽しい期待を持った。2月3月もきちんとこなした。4月はもともとお休み。5月に入って体調がわるいので一年間休むと連絡が入る。まずいと思った。6月に入って体が末期に向かっていると友人を通して知る。参った。
私の実家は、札幌の彼女の住居の近郊だが、事情により二年間帰られずにいた。会いに行くなら今だと解り気持ちが決まると、無理かとおもわれた日取りがポンポンと決まる。6月末から四日間実家から室野井さんに会いに通った。いい時間を共に過ごさせてもらえた。東京にもどって二日後に亡くなられた。悲壮なかんじはなかった。三日めには体がしゃんとした時もあり不思議と爽やかさを感じた。おそらくつねに身体の変動を受け入れては稽古し、百戦錬磨の日々を生きてこられたと想う。時間がなくなっていく中で「美しいものと向きあっていたい」と室野井さんは言った。今も日々影響を受けその姿が想い出されながら先に進む力になってくれている。
お疲れさまでした。ありがとう。

冊子「追悼 室野井洋子」(2017年12月)より再録

.

室野井洋子さんによせて  林央人

昨年(二〇一六年)の九月の満月の日、室野井さんと幾郎さんがニセコまで訪ねてきてくれた。その日の夕暮れ、背の低い草がしげる休耕地で室野井さんは踊った。羊蹄山を背景にして見るその踊りは、雲の上をただようにみえたし、土を踏みしめているようにもみえた。 やがて日が落ちて、羊蹄山のてっぺんから月が昇った。
花ふだの絵にありそうな見事な光景だった。
今年もニセコに来ることを楽しみにしてくれていたからそれが叶わなかったことを思うと悲しい。
病状を知らないまま足を運んだギャラリー犬養で最後の踊りをみて、病院にお見舞いに行っても、こんなにすぐに会えなくなるとは思えなかった。

たくさんお世話になった。
沖縄やスペイン、ポルトガルへの道すじ、東京でのソロライブ、札幌でのレコ発コンサート。自分にとって節目になる出来事でたくさん支えていただいた。
感謝しきれない。

お正月に着物を着てごちそうを用意してくれていた。
ななかまどや梅の花をわたすと喜んでくれた。
ニセコで自分が作ったゆですぎのパスタをおいしいと言って食べてくれた。

野外で演奏したり、ライブをするようになってから、ひとつの心がまえを持って演奏するようになった。
「ひろくあれ」
室野井さんのお話しや感想に影響を受けてあらわになった。

過去は過ぎ去ったことだけど未来より不確かだ。
風に吹かれたとき、木々のざわめきを聞いたとき、
月に射たれたとき、闇がぬかるむとき、
室野井さんの踊りや言葉を思う。

まだまだ一緒に過ごす時がほしかったです。
試験的に作付けした秋播き小麦が思いのほか収穫できました。
その小麦でパン作ってほしかったし、そのパンを食べたかったです。
染めもののこともお話したかったです。幾郎さんからいただいたものはとてもきれいで、やわらかい色です。
締めくくりたくなかったし、最後にお会いしたときに言えませんでしたが、室野井さん、ありがとうございました。
室野井さんと出会えたから今の、これからのじぶんがあります。
そのことがうれしいしありがたいです。

不確かでゆるぎない光と影は永遠に。

冊子「追悼 室野井洋子」(2017年12月)より再録

.

そうかなあ  福間健二

 室野井洋子さんのことは、妻と私はいつも「室野井さん」と呼んできた。わざわざこう言うのは、「洋子さん」や「洋子ちゃん」になってもよかったのに、という気持ちがあるからだ。パートナーの高橋幾郎さんは「高橋さん」。室野井さんが亡くなってから、高橋さんをこれからは「幾郎さん」と呼びたいと二人で一度ならず話したが、なかなかそうならない。癖をつけたいので、この文章では彼を「幾郎さん」にする。
 こう書いているうちにも、室野井さん、幾郎さん、妻と私の四人で、あるいはそれにだれか加わって、一緒に飲んだ場面の数々が、よみがえってくる。楽しかった。お酒も食べ物もおいしかった。ことにこの数年、私たちは札幌に行くのを大きな楽しみにしていた。半分は室野井さんたちと飲めるからだった。
 そういうとき、室野井さんと私がすごく気心が通じていたかと言うと、実はそうでもない。気が合わないとかよく言い合いをしたというほどではないが、どちらかと言うと、私の言うことに対して「そうかなあ」と納得できなさそうな表情をしていた彼女が、つよく残っている。私に対してだけではなく、いろんなことに「そうかなあ」という顔を見せた人だ。いつでもそうだったというわけではない。茶目っ気の何歩か手前の笑顔の記憶もちゃんとある。でも、「そうかなあ」となることが多かった。まず、人の、調子に乗ったおしゃべりが、いやだったのだと思う。場がうるさくなっていると、そこに身はおいていても、室野井さんという存在はいなくなっていた。彼女自身はゆっくりと静かに語った。クールで、カッコよかった。
 妻は、この六月、室野井さんの具合が深刻になってから二度札幌に行き、彼女のそばで時間をすごした。私はそれができなかった。私が室野井さんに最後に会ったのは、四月、彼女と幾郎さんが、山梨でのパフォーマンスからの帰りに国立のわが家に来たときだ。碧衣スイミングちゃんにも来てもらって五人で飲んだ。室野井さんは疲れている様子だった。いまから思えば、それは並の「疲れている」じゃなかったはずだ。そこまで感じとれなかったのがくやしい。アルコールが入ってしばらくすると、彼女は彼女らしいカッコよさを取りもどし、妻の料理をおいしそうに食べた。なんのことだったかおぼえていないけど、やはり彼女らしい、ちょっと皮肉な言い方も出た。クールさ、それに疲労感が重なっていただろうが、いつもの室野井さんだと思ってしまった。
 私たちが出会ったのは、一九八六年か八七年あたりだろうか。妻と私が参加していた「野口整体」の「動法」という体の動かし方を学ぶ会に、室野井さんは現れた。ということは、遠目に見てもよく目立つその体のふしぎな印象を入口にして、彼女を知ったのだ。  一九九五年の春には私の映画『急にたどりついてしまう』に出演してもらうことになるが、そこまでのこと、どう書いたらいいか。彼女の踊りをはじめはすごくいいとは思わなかった。なにか、見る人への態度に、高級な生意気さというか、文学で私が反発するか始末しようとしていたものに近いものがある気がした。でも、最初の最初から、彼女の立ち方、ただ立っているだけでその体が発しているものは、圧倒的にすばらしかった。
『急にたどりついてしまう』を撮る前の年の秋だったと思う。夜の井の頭公園で室野井さんと田中敏くんのパフォーマンスがあった。私はそれに立ち会って感動しながら、この室野井さんを撮るだけで映画が一本できるな、と思った。
 そのころ、私は、学生時代に撮った作品以来、二十何年も撮っていなくて、長篇映画撮りたいのにどうやって尺(長さ)を埋めたらいいのか、まったく自信がなかった。室野井さんに出てもらえば、映画やれる。そんな気になった。それが実際に撮ることへと私を後押ししてくれた力のひとつになったのは、言うまでもない。
『急にたどりついてしまう』の室野井さんの出演場面は、応援してくれた監督や助監督たちの助けをあまり借りずに、室野井さんと小西泰正カメラマンと三人で作ったという気持ちがある。実際はエキストラの配置をはじめとして助けられたところがほかのシーンよりも多いくらいだが、気持ちはそうだった。室野井さんは、前日にひとりで撮影場所の国分寺跡を下見するなど、入念な準備をしてくれた。小西さんも、のっていた。考えてみると、私はほとんど何もしていない。二人がやってくれるのを、そうだ、それでいいと、監督として撮影の現場にいることの大変さから解き放たれるように、うなずいているだけだったかもしれない。
『急にたどりついてしまう』は、当時ピンク映画で注目すべき作品を連発していた瀬々敬久とサトウトシキが司令官的にバックアップしてくれた。この二人と佐藤寿保、佐野和宏は「四天王」と呼ばれ、かれらの作品は、その「作家性」でファンを引きつけながら、興行側からは煙たがられていた。一九九六年、私は、『ピンク・ヌーヴェルヴァーグ』というタイトルの、この四人についての論とインタビューの本を、ワイズ出版というところから出した。
 室野井さんがその編集をした。編集者としての彼女と仕事をしたのはこのときだけだ。その仕事ぶりは、緻密で、手抜かりがなかった。それだけでなく、こちらの書くのが遅れに遅れたときにとくに感じたことだが、書く者へのやさしさがあった。それは表現者への敬意ということでもあって、監督たちと接するときも、いい感じだった。なにしろ、スティール写真入りのフィルモグラフィーに『ロリータ・バイブ責め』とか『痴漢わいせつ覗き』とか『ぐしょ濡れ全身愛撫』というタイトルが並ぶ本である。これを女性の室野井さんが臆することなく担当してくれたことが、私と監督たちはうれしかった。
 妻と私は、一九九八年の九月から一年間、UKのウェールズ、その首都カーディフで暮らした。一九九九年七月、ちょうどフランスにいた室野井さんが私たちのところにやってきた。一週間くらい、一緒にすごした。後にも先にもなかったことだ。
 カーディフで親しくなっていた詩人やアーティストに協力してもらって前もって準備し、室野井さんの公演を二回やった。そのうちの一回は、室野井さんが踊ったあとに彼女と私とデイヴィッド・グリーンスレイドという詩人でトークをやった。そのときの室野井さんの踊りだけでなく、会場の下見をしたときや一緒に舞台に立ったときのことも、記憶にはっきり残っている。室野井さんは、リハーサルをしない。公演のひとつひとつがその一回かぎりでやれることをやりきるという真剣勝負なのだ。朝起きて夜眠るという生活時間の流れのなかでその勝負のときをどう迎えるのか。それを間近で見た。緊張を共有して些細なことで言い合いもした。
 踊りだすと彼女は鳥になった。黒の衣装から露わになっているその肩甲骨に翼が生えていた。協力者のひとり、年季をつんだ女性のダンサーが彼女の踊りに感動しているのがわかった。公演のあと、そのダンサーとパートナーの住むアパートで、みんなで飲んだ。
 デイヴィッド・グリーンスレイドは宮沢賢治が好きで、日本でお坊さんの修行もしたことがあるという「日本通」だった。ある午後、私たちは彼の家に行き、彼の提案からなんと庭で盆踊りをやった。室野井さんの盆踊り。そのときの写真が残っている。室野井さんも私たちも羽目をはずしてはしゃいでいる。
 ここで話が十年以上飛ぶ。二〇一〇年の夏、私は『わたしたちの夏』という映画を撮った。シナリオで「天使的存在A」とした役を室野井さんにやってもらった。撮影の日、彼女は札幌からやってきたが、国立駅に着いたのは午後四時すぎ。そこから日が落ちるまでに出演シーンのすべてを一気に撮った。あの世の入口に立っている存在だ、とだけ私は言った。彼女はそれ以上の説明を求めなかった。わかってくれていると私は確信した。彼女を撮るだけで映画が一本できると思ったことがあるのを思い出していた。
 見てくれた人は同意してくれると思うが、圧巻だったのは金網の前の彼女をとらえたショット。固定カメラで胸から上を撮った。テストで、彼女の姿が画面から大きくはずれた。鈴木一博カメラマンが彼女の動いていい範囲を示した。ほとんど動けない。ほとんど動かずに踊ってくれという注文なのだ。室野井さんと鈴木カメラマンのたたかいという様相になった。テストはもうしないで、本番。一発オーケーで決まった。
 編集の過程でこのショットについて思ったことをここに書く。これは、ジャンヌに負けていない。カール・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』(一九二七)のルネ・ファルコネッティに負けていない。何度もそう思ったし、いまもそう思う。
「そうかなあ」と室野井さんが笑っている。

冊子「追悼 室野井洋子」(2017年12月)より再録

.

にせおねえさん  知久寿焼

むろのいさん、
むろのいようこさん、
血のつながらないおねえさん。

けさはどんなごきぶんですか?
っていうか、きぶんそのもの、っていうきぶんは
どんなんだったっけでしたかのぅ。

廿世紀の終わる十年前、
はじめてこっちでお会いしました。水谷さんの紹介で。
ぼくに会いたがってくれてたという矢川さんの付き添いで。
「わたしは初め見たときダメだったの。
 なんか嫌だったのよね。
 今思えば近親憎悪っていうものだったのかもしれない。」
ふるえる細くて長い指。
それからずっとこころのおねえさん。
矢川さんが言ってた「にせ家族」の、ぼくのおねえさん。

とにかく、
おいしいものを見るととたん、
ぱあっ、とお顔があかるくなって、
にこにこうれしさがかくせない、
ああいうときのかわいらしさ。

あ、いまこれ書いてるこの円机、
あの円机だよ。
むろのいさんが持ってきた、
天沼でみんなでさんざんおいしく飲んで食べた、
あの、この円机で書いてます。

よもぎのてんぷら。
温室みたいな、札幌のあのアパートの部屋で、
ココナツ油でおいしく揚げてくれました。
幾郎さん、小磯くんとカヨちゃんと、由希ちゃんもいたんだっけ?あれれ?
まいっか、、みんなでびっくりするくらい、たくさんたくさん食べました。
あれは遠い夏のはじめ。
遠い去年の夏のはじめ。

いろんなとこ行ったけど、意外にも、
一緒に野を歩いたことはそんなになかった。
ぼくがつのぜみ探しついでによもぎ摘むとき、
のりうつってもいいからね。

冊子「追悼 室野井洋子」(2017年12月)より再録