イエメンの歴史

 

この国の歴史は古い。紀元前1000年頃にはシバ王国が興り、ヨーロッパと東アジアを南アジア経由で結ぶ東西の交易ルート『海のシルクロード』のうち、インド洋につながる陸上ルートの最後の部分をその支配下において約1400年にわたって栄えた。この時代が、この国が世界史の中でもっとも燦然と光り輝いた時と言えるだろう。紀元前10世紀、シバの女王がヘブライ王国のソロモン王を訪問したという話は有名だ。アラビア半島南部の交易ルートを支配したシバ王国にとって、地中海東部の交易を支配していたヘブライ王国との友好は政策上重要なことだった。

 

シバ王国の首都は、現在のイエメン共和国の首都サナーから東へ160キロほど離れた、内陸部で標高の低い砂漠地帯のマーリブという所にあった。交易キャラバンからの通行税収入によって膨大な富を蓄積したシバ王国は、紀元前8世紀、当時としては世界最大規模の公共工事を実施した。巨大ダムの建設である。ダムの長さは680メートル、高さは16メートルにも達したという。このダムによって広大な農地が灌漑され、その後1000年以上に渡って、王国の首都住民の生活を支えた。

 

シバ王国の繁栄に陰りが見え始めたのは、紀元1世紀、航海術の進歩により、交易ルートが陸上から紅海経由の海上輸送へとシフトしていった事がきっかけだった。さらに、ローマ帝国がキリスト教に改宗したことにより、土着宗教の儀式に使われていた乳香の需要がなくなり、『海のシルクロード』自体の貿易が減少していった。貿易収入の減少に外敵の攻撃も加わり、王国は衰退の一途をたどっていく。マーリブの巨大ダムの維持管理もおろそかになり、ついに570年、ダムが崩壊し、住民はこの都市を捨て方々に移住していった。この時から、マーリブは世界史の舞台から千数百年にわたって忘れられてしまうことになる。

 

その後イエメンはイスラム帝国の一部となり、世界史の舞台で注目されることはなくなった。イエメンはイスラム帝国の辺境に位置することになり、また険しい地形であったため、実質的には半独立の諸王国が分立割拠することになる。その中で最も長く続いたのが9世紀末に成立したザイド朝で、1962年の共和革命まで1000年以上にわたって存続した。

 

16世紀になるとこの地域にもヨーロッパ諸国などが進出を企てるようになり、16世紀半ばにはオスマントルコ帝国がイエメンほぼ全土の制圧に成功する。17世紀半ばにはザイド朝がトルコの支配からイエメンを解放するが、19世紀後半にはまたトルコに占領されてしまう。この間、19世紀半ばにはイギリスがイエメン南岸の良港アデンを占領し、自国の植民地の一部とした。

 

トルコはイエメンを占領したものの、決してイエメンを完全にコントロールすることは出来ず、1919年、第1次大戦での敗北とオスマントルコ帝国の崩壊により、イエメンは独立を取り戻し、ザイド朝の流れをくむイマーム(指導者の意)・ヤフヤが北イエメンの支配を確立し、イエメン王国が成立した。しかし、アデン港はイギリスの植民地のままで、紛争も絶えず、不安定な状況が続く。イマーム・ヤフヤはイエメンを完全な鎖国状態に置くことによってその支配を確立したが、暗殺後その後を継いだ息子のイマーム・アフマドは、徐々に国を解放していく道を選び、1950年代にはイギリス、米国、エジプト、ソ連などと外交関係を結んだ。しかし民衆の生活は依然中世さながらで、公立学校や病院もなく、多くの住民は持病に苦しんでいた。この時代のイエメンはおそらく世界中で最も中世的な、時代から取り残された国であったろう。

 

1962年イマーム・アフマドが死去すると、軍人たちのグループが革命を起こし、イエメン・アラブ共和国を打ち立てた。彼らの多くは海外留学し、エジプトのナセル大統領が唱えたアラブ民族主義の影響を受けていた。共和国はすぐに米国やソ連に承認され、1963年には国連に加盟する。しかし王党派がすぐに駆逐されたわけではなく、イマーム・アフマドの息子ムハンマド・アルバドルはイエメン北部の山岳地帯にこもって抵抗を続け、約8年間に渡って血生臭い内戦が続く。共和国政府軍はエジプトやソ連の援助を受け、王党派はサウジアラビアやイギリスの援助を受けていた。政府軍は一時苦戦したが最終的には勝利し、1970年内戦は終結、同年サウジアラビアはイエメン共和国を承認した。

 

一方、イギリスの植民地となっていた南イエメンのアデンでは、特に1962年の北イエメンでの共和制成立以降、植民地支配に対する抵抗運動やゲリラ戦が広がり、ついに1967年、イギリスが撤退して南イエメン人民共和国が成立した。南イエメンはソ連など共産圏諸国の援助で国づくりを進めようとする。

 

南北2つのイエメンの進路は決して平坦ではなかった。北イエメンではクーデターや暗殺が続発したし、南イエメンは経済的に破産状態だった。両イエメンの関係も不安定で、70年代には2度にわたって南北イエメンの間に戦争が勃発した。80年代になって北イエメンは政治的安定を取り戻すが、南イエメンは経済的に困窮を極め、89年のソ連崩壊とともに国家運営が立ち行かなくなり、南イエメン指導部は北イエメンとの合併を決断した。

 

19905月、2つのイエメンはイエメン共和国として統一を達成する。しかし南北イエメン間の派閥争いは深刻で、ついに19945月、南北内戦が勃発した。北部側は優勢に戦いを進め、2ヵ月後勝利を収める。この内戦によって北部側指導部の優位性が確立した。その後の情勢は比較的安定している。

 

しかしイエメンにはイスラム過激派の拠点があるといわれ、200010月にはアデンに寄航中の米軍駆逐艦が爆破されるという事件があった。また20019月米国で発生した同時多発テロの後、米国政府はイエメンにアルカイダの拠点があるとして、イエメン政府軍と共同で掃討作戦を行っている。だが一般市民の間ではパレスチナを弾圧するイスラエルを援助する米国に対する反米感情が強い。このような情勢が現在のところ最大の不安定材料といえよう。(20028月)

 

イエメンの地形と気候

 

イエメンはアラビア半島南端の北緯15度線付近に位置する。沿岸部や東部低地は砂漠気候で一年中暑いが、西部山岳地帯は標高1500から2500メートル程度の高原が多く、最高峰は標高3700メートルで、富士山とほぼ同じだ。山岳地帯ではモンスーンの影響で雨季があり、通常大雨季は8月から9月上旬頃、小雨季は3月から4月頃だ。この他の季節は通常乾燥した晴天が続く。海岸の砂漠地帯でも雨季には若干の雨が降る。

 

気温は季節によってより標高によって大きく変わる。海岸部の平均最高気温は冬季(121月)でも32℃、夏季(7月)では40℃にもなる。標高2250メートルのサナアでは、平均最高気温は冬季25℃、夏季30℃程度。高原地帯では気温の日較差が激しく、サナアの平均最低気温は冬季で約0℃、夏季でも10℃位だ。

 

訪れる季節としては、小雨季の34月頃か、大雨季後の9〜10月頃がベストではないだろうか。雨季の直後の山々は緑に包まれており、『幸福のアラビア』と呼ばれる理由が実感できるだろう。5月から7月頃は高原地帯でもかなり暑くなる。また、11月〜2月の冬季も晴天が続き涼しいので旅行に適した季節といえるが、山々に緑が少ない。東部砂漠地帯の『古代摩天楼都市』シバムや『インド洋のガラパゴス』ソコトラ島を訪れるなら冬季がベストだ。私が訪れたのは12月だったが、特に寒いと感じることもなく、日中は暖かく晴天が続き、旅行するには最適の気候だったと思う。

 

イエメン西部の地図

イエメン東部の地図

イエメン全体の地図 (外部サイトjpgファイル約400k)

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