29)天狗堂988m :2017年11月12日 2017年山の記録に戻る 天狗堂は10日前の10月31日に下見で登っている。詳細はそちらに譲るが、前回にも増して快晴に恵まれた。この10日あまりで紅葉は麓まで下り、山 頂近くはすっかり落葉していた。今回は、逆コースをとった。登る前に、大皇器地祖神社、登山後は高松御所金龍寺と日本の木地の発祥地にゆかりの 寺社を見学した。展望岩からの御池岳〜御在所岳の稜線、山腹の紅葉は見事だった。永源寺、奥永源寺道の駅共に、観光客の車でいっぱいだった。 他のパーティーにも出会いがあった。 守山駅(7:50)−421号線コンビニ集合(8:47)−君ヶ畑集落P(430m)(9:30)−大皇器地祖神社(9:37)−稜線分岐(10:10 )−西尾根−天狗堂山頂(11:15〜 11:20)−展望岩(11:25〜12:18、昼食)−天狗堂山頂(12:25)−岩尾谷コース−尾根筋別れ−沢沿い分離点−御池林道登山口(13:18)−高松御所金龍 寺(13:54)−君ヶ畑集落P(14:02)〜木地師資料館〜道の駅奥永源寺渓流の里〜自宅 行動時間:4時間32分、歩行時間:約3時間20分 歩行距離:8.8q 守山駅でFさんをピックアップ、集合のコンビニに向かう。集合予定時間にぴったりと到着、登山口の君ヶ畑に向かう。君ヶ畑には予定の時間の少し前 に到着した。予定の場所には車が3台、やむなくその前の家の方にお願いし、家の大きな空き地に駐車させていただく。君ヶ畑集落は木地師発祥の地 で、駐車場所にはミニ木地師 駐車場所から表示に従い出発 石の鳥居とスギの大木(神木)が目を引く。登山口横の大皇器地祖神社を見学し、いよいよ登山口から登りにかかる。いきなりの急坂になる。スギ中心 で広葉樹の落ち葉を踏みながら慎重に進める。稜線まで出る30分強は急登の連続だが、管理道路が見えるころには、君ヶ畑の表示が出てやっと解放 される。少し前からは左手の谷は紅葉が美しい。樹間越しに天狗堂の山頂部分が垣間見える 左手の稜線は宮坂峠へ続く。スギ林の縁を歩く格好で進む。右手は広葉樹林だが、見晴らしはいまいちである。それでも紅葉越しに天狗堂の山頂部分 や南方向に山並みが楽しめる。歩きやすい尾根道が続く。木々が切れた明るいところで一休みする。稜線に達してから30分、天狗堂の眺めはここがま しだった。 明るく開けたところから天狗堂の山頂が望める 10分ほど進むといよいよ急登第2段が始まる。落葉が敷き詰められた滑りやすい斜面を足元を確認しながら登る。次第に大きな岩が現れる。場所によ っては岩の間を登ることになる。少し登山道から外れ、木々が少なくなったところから南方向を望む。雨乞岳〜綿向山の山並、その間に南の鈴鹿主稜 線が望まれる。足元に、ツルリンドウの赤い実が見つかった。 南方向を望む。雨乞岳〜綿向山の山並、その間に南の鈴鹿主稜線 ツルリンドウの赤い実 最後に大きな岩の間を登りきれば山頂に着く。この10日ほどで落葉が進み、多少見晴らしはある。皆で山頂写真を撮り、展望岩に向かう。 山頂写真、青空が冴える 展望台からの眺めは抜群、鈴鹿主稜線が一目で分かる。岩場を左手に詰めれば更に南がカバーできる。 更に南の釈迦岳〜国見岳〜御在所岳に続く稜線 展望岩 十分眺望を楽しんだ後、少し戻った、日あたりの良い、風が遮られた場所で昼食タイムとする。カップカレーうどんとコーヒー、皆さんからのミカンやお菓 子を楽しむ。爬虫類を連想させる大岩のそばであった。 昼食場所 爬虫類を連想 たっぷりの時間を楽しみ、山頂に戻った後、登ってきたところから90度曲がった急坂に挑戦する。こちらも大きな岩を避けながらテープを頼って慎重に下 る。こちらは鈴鹿林道に下る直登コースで岩尾谷登山口と呼ばれている。一旦は平坦になる。10日前は、紅葉が進み期待していたが、今日はすべて落 葉し枝のみになっている。竜ヶ岳〜静ヶ岳の稜線が見えるのがせめてもの慰めである。しばらくで、スギ林の中の急斜面になる。やがて、ユズリハが多く みられると、谷への下り分岐になる。こちらの斜面は一層の急坂であるが、ジグザグになっており狭い道ながらましである。10分もしないうちに谷筋に出 て、左手に谷を見ながら進み、広葉樹林、スギ林を抜け、御池林道に下り切った。登山口には火の用心の注意書きとテープのみ、登山口表示がなく、 登る時には分かりにくい。 御池林道を君ヶ畑集落に向かう。10日のうちに御池川の両岸はすっかり紅葉が進み、見ごろとなっている。赤あり、黄色あり、橙ありで撮影も忙しい。 30分ほどで集落が見える。駐車場所に戻る前に惟喬親王ゆかりの高松御所金龍寺に立ち寄った。そばに墓所が置かれている。 金龍寺を後にして階段を下る。集落に戻る。 注: @大皇器地祖神社 大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)は、滋賀県東近江市君ヶ畑町に鎮座する神社である。旧社格は村社。木地師の祖神として惟喬親王を祭る。 神紋は十六菊。歴史であるが、898年(寛平10年)の創祀と伝わる。1872年(明治5年)まで、正月・5月・9月に国家安泰・皇家永久の祈祷符を宮中に納 めていた。惟喬親王がこの地に住んでいた際、小椋信濃守久長と小椋伯耆守光吉に命じて木地の器を作らせたという。この伝承によって、当社を木地 師の根源社と称している。同様に木地師の根源社と称す筒井八幡(現筒井神社)と木地師に対する氏子狩を行い、全国に散っていた木地師に大きな影 響力を持っていた。「白雲山小野宮大皇器地祖大明神」とも称したが、1882年(明治15年)に現社名に改められた。1893年(明治26年)には内務省から 保存資金が下賜された。旧村社。 A高松御所金龍寺 第55代の天皇文徳天皇の第一皇子である惟喬親王が建てた寺。当時の摂政関白、藤原良房の娘と文徳天皇の間に生まれた第四皇子、惟仁親王が 第56代清和天皇に即位したため、皇位継承に敗れ、この山中に幽棲した。惟喬親王はこの地に金龍寺を建て、これを住居とした。里人は君ヶ畑と呼ぶ ようになり、金龍寺を「高松御所」と呼ばれるようになった。惟喬親王は法華経の巻物の紐を引くと、巻物の軸が回転するのを見てろくろを考案したと伝 えられている。木材を原料とし、盆、お椀、駒、こけしなど作る人を「木地師」と言われるが、以来、この地が「木地師発祥の地」となった。金龍寺高松御 所のすぐ横に惟喬親王の墓所がある。墳丘になっているが、墓所は大きなものではなく、石製の扉に皇室の紋章である菊花が刻まれている。惟喬親王 は、『深山辺の池の汀に松たちて都にも似ぬ住居とぞおもう』という歌を詠んでいる。 |
行程図(清水氏より拝借) (国土地理院より引用) 2017年山の記録に戻る 作成日: 2017年11月14日、 |