2) 龍王山(天理)586m:2018年1月28日 龍王山は標高、586mの三角点がある山である。奈良盆地の東、天理から桜井に続く山の辺の道がある春日断層崖沿いにそびえる山並 の中で、最も高い山になり、標高586mである。三角点の置かれた南城跡のある山頂からは、大和三山を含む奈良盆地全体を眼下に眺め ることができ、後方に金剛山から葛城山、二上山に連なる山並みを楽しめる。天気に恵まれれば、大阪湾からさらに遠く、明石海峡大橋ま で眺望できる。山周辺は、古墳時代には麓に古墳群が造られ、中世時代には山頂に山城が築かれ、龍王山城と呼ばれている。標高は 586mで、名前の由来は、柳本町や田・藤井町の龍王社がまつられているところから、龍王山とよばれている。山城は、戦国時代に十市氏 によって築かれ、中世の史料には「龍王城」(後述)の名で登場する。 山頂からの眺めは抜群で、奈良盆地のなかに耳成山、香具山、畝傍山の大和三山、矢田丘稜の奥に生駒山、右手から二上山〜葛城山 〜金剛山、吉野山の山々、六甲山が展開する。 龍王山へのコースは、天理ダムから舗装道を歩くルート(ダムルート)、柳本駅から長岳寺の北コース(長岳寺ル−ト)や崇神天皇陵東側 から登るルート(崇神ルート)がある。古墳群や山城の説明の入ったMAPをトレイルセンターで入手できる。観光協会のHPからダウンロード も可能である。 今回は、柳本駅から長岳寺ル−トで登り、ダムルートで下山した。天理ダムからの帰りのバス便が合わず、天理からタクシーを呼ぶことに なってしまった。事前の調査が十分でなく、同行者に迷惑をかけてしまった。 守山駅(7:31)−京都駅(8:59、近鉄8:06)−平端駅(9:15、9:20出発)−天理駅(9:04、9:22)−柳本駅(9:27、9:30出発)−169号線長岳寺方 面歩道入り口(9;44)−長岳寺(10:03)−登山道口、山頂まで2.4qポイント(10::16)−不動石仏(10:51)−奥の院分岐(11:00)−舗装道・案 内表示ポイント(11:20〜11:25)−田・藤井龍王社(11:27)−龍王山山頂(南城跡)(11:45〜12:25、昼食)−舗装道・案内表示ポイント−馬池 (12:55)−天理ダムバス停(13:40、14:20タクシー)−天理駅(14:40、14:56)−西大寺(15:20〜16:45、総会)−京都駅(1645)−守山駅( 17:15) 行動時間: 守山駅から電車を乗り継いで集合場所の柳本駅に到着する。琵琶湖線が遅れ、ひやひやものの乗り換えになった。近鉄京都でもう一人と 合流、更に5名と柳本で全員がそろった。早々に、駅から東に直進する。国道を指示に従い、左折し、長岳寺に向かう。しばらくで、長岳寺 への綺麗な道にでる。右折し、東に向かう。前方には龍王山がどんと構えている。 ![]() 道端の柿の木の根元にイソヒヨドリがしきりに何か探しているようである。特別に舗装された道をしばらく行くと、長岳寺への道、トレイルセン ターの大きな駐車場に出る。直進すれば、長岳寺、右方向は崇神ルート、左手に進めば、本来の道、上長岡バス停からのルートに合流す る。登山者は、長岳寺の山門を避けるような表示になっているが、かまわず、長岳寺に向かう。しばらくで、長岳寺の受付の分岐に出る。写 真をとるため指示に従い右へぎりぎりまで進むが、先は有料、十分な撮影にはならなかった。 ![]() 戻って、先ほどのところを反対方向に進む。突き当たったところを、左手に少し戻るような格好で、龍王山への表示が現れる。ここからは、 直進の道である。山すそで、柿の産地らしく、多くの木がある。すぐ手に届く枝っぷりで、秋になれば思わず手が出そうになるかもしれないな と思いながら詰めると、木立が現れ、いよいよ登山開始になる。表示は山頂まで2.4q、トレイルセンターから1.1qと出ている。 ![]() 階段状の道で、古い雰囲気だ漂う。左右に地蔵が現れる。スギとヒノキの植林の道で、結構深くえぐられ、足元はごつごつと岩が露出した道 である。寒波で降った雪が所々で残り、滑りやすいところも出てくる。出発して1時間20分、このルートの目印になる、不動石仏が現れる。小 休止を兼ね、撮影をする。 ![]() 次第に足元がササで覆われる。そんなに長い時間ではなく、右手に奥の院への道が出てくる。長岳寺ルートは右方向だが、一旦は下り、登 り返して支尾根に出る様子である。迷うことなく、直進し、近道をとる。ヒノキ林が続いているが、一登りで、舗装道に出る。この付近の案内 図、道がいくつにも分岐した要所である。 ![]() 山頂は南城跡、指示に従って進む。すぐの所に、田・藤井龍王社が現れる。近くには柳本龍王社もある。いずれも雨乞いの神様である。 ![]() 舗装道をしばらく行った先に山頂への分岐と、山城の詳細な説明がある。ただし、往時の城址跡はほとんど残っていない。急な坂ら階段を しばらく行った先が南城跡、龍王山山頂である。松や常緑樹、落葉樹がわずかにある広い山頂で、ベンチが5か所ある。 山頂からの眺めは素晴らしく、パノラマ写真を掲載する。 ![]() 奈良盆地が見渡せ、大和3山が手に取るようである。 ![]() ![]() ひとしきり眺めを楽しみ、昼食にする。いつも通りのカップカレー麺とコーヒでくつろぐ。全員の記念写真を撮った後、元来た道を案内板ま で戻る。トイレ横の遊歩道を進む。ヒノキ林の中の道で、多少のアップダウンが続く。一旦、舗装道の馬池に下る。ここから、北城跡への道 が分かれるが、荒れ果てているとのことである。舗装道を行った先に、龍王山城跡と彫った立派な石碑があって、ここから北城跡へ行くこと ができる。ただし、見るべきものもなく、見晴らしもないということで通過する。スギやヒノキの間の舗装道をひたすら天理ダムに向かう。所々 で残雪、更に日陰では道が凍りついている。馬池跡から45分ほど歩き、やっと天理ダムに着く。パラパラと降っていた板雪が、本降りになる 。幸いバス停は休むことができる。時間を見ると1時間10分以上も待たなければならない。どんな調べ方をしたのか。みなに申し訳ないこと をした。タクシーを呼んで何とか早めに天理駅に戻れた。毎年1月の例会はその後に、総会を開く。京都にも、大阪にも都合の良い西大寺 に行き、無事総会を終了した。 行程マップ(清水さんより拝借) ![]() (国土地理院の地図を引用) 解説:龍王山城 龍王山城(りゅうおうざんじょう)は、奈良県天理市田町周辺にあった日本の城。大和国を代表する山城の一つ。大和平野と大和高原にあ る山脈、龍王山の高所に築城されていた。藤井集落からの比高は約130mだが、国中からの比高は約485mあり、比高では高取城を越えて おり大和国随一である。また城域は広大で、中世城郭の規模が明確でない高取城を除くと大和国最大で、北城部分だけでも信貴山城の次 いで第2位となる。龍王山城は北城と南城に分かれている。北城が本城で南城が詰めの城と考えられている。北城と南城には時期の差が 考えられている。十市氏の全盛期は、十市から天理市の平野一帯まで十市郷とよばれる勢力圏を形成していた。十市の平城十市城と共に 居城としていた。十市氏は、筒井氏、越智氏、古市氏、箸尾氏と並ぶ大和国五大豪族の一員であった。1997年(平成9年)には天理市教育 委員会により南城の平場部分に発掘調査が行われた。城郭:龍王山城と周辺地域の空中写真/国土交通省 国土画像情報(カラー空中写 真)を基に作成龍王社と溜井池田城の復元枯山水庭園跡龍王山城は、龍王山に築かれており、規模は南北に1.2kmに及んでいる。南城の 最高所の標高は585.9m、北城の最高所は60mほど低い位置にある。どちらも戦国期末期の改修が認められるが、全般に北城の方が新し い。1540年(天文9年)の前後の十市遠忠の居城時代と、永禄時代-天正初年の松永方の支城時代の2つのピークが想定される。松永時代 には、信貴山城、多聞山城、鹿背山城、そして龍王山城の四城が拠点城郭となっていた。登城ルートは、萱生道の2道、中山道、そして釜 口道の計4ルートがある。南城の縄張りは稜線上に一列に並ぶ6つの連郭式に、山腹部3つ程度の張り出し曲輪が付属するオーソドックス なもので、戦国初期によく見かけられる形態をしている。これに、後世の加えられた部分が若干認められる。この地域の最高所である南城 は「釜口ノ山」と記されている点から、最初に築かれた部分であると言える。主郭を至るルートには、枡形、食い違い土塁、土橋、伏兵溜な どの防御施設があり、テクニカルな縄張りとなっている。また南城には竜王社を祀る溜井があり、水には恵まれていた城である。北城[北城 は南城西北端より300m以上離れ、標高で60m低い標高522mの別山になる。南城からは見下ろされる地形ながら、平坦地形に恵まれ大き い曲輪取りが可能になった。その結果北城が本城、南城が詰め城になったのではないかと思われている。南城は、山側は道から単純に出 入りできる屋敷群で、防御もそれほど発達していない。それに対して、国中方面の主要曲輪群は土塁を伴い防御の効いた配置となっている 。つまり東山内側が安全地帯、搦め手で、国中側が防御正面の大手であった。曲輪の相互支援の連絡通路は東山の内側で行われ、稜線 連郭部分の土塁は国中側に設けられている。稜線上の連郭と、支尾根上の曲輪を放射状に配置し、山腹を迂回する道でそれらを横に結 びあわせる形が基本となっている。城内へは太鼓丸と巽櫓曲輪の2つの曲輪の間の虎口は、二重の食い違い土塁が二ヵ所あり、その間は 丸い堀になり主郭ヘリ入り口を固めている。それ以外にも、西の大手丸、五人衆の曲輪、馬ひやし場、時の丸と呼ばれている曲輪がある。 この北城には「馬池」と呼ばれる揚水地があるが、これは馬の足を洗うだけの池ではなく、空堀土橋へ迂回されるための防御施設も兼ねて いる。馬池は林道が作られた為、大半が埋まってしまった。(ウイキペディアより引用) 2018年山の記録に戻る 作成日: 2018年1月31日 |