15)飯道山 664m :2020年3月6日 2020年山の記録に戻る
 信楽の山として知られ、飯道山は全山が花崗岩からなり、西覗き岩・不動押し分け谷・蟻の塔渡し・胎内くぐり・鐘掛岩などの奇岩が各所にあって、1951年(昭和26年)に再興された飯道山行者講の修行場となっている。山上には、往時の遺構が他にものこり、飯道寺跡・行者堂・弁天堂・五院跡・木喰上人応其墓などがある。(飯道山観光協会より引用)
上記の観光協会には、甲賀の三霊山が紹介されており、その中で飯道山の説明として、役行者小角が開祖した山岳信仰の拠点で、中世は山中に数多くの僧坊があり、山伏の修験場として栄え、忍者との密接な関係であると紹介されている。さらに、庚申山は(標高420m)は、真鍮の神様で知られる広徳寺があり、山頂からの展望は心を癒すと記載されている。最後の3山、岩尾山(標高471m)は、最澄が開山し修験の場であり、巨石、自然石が至る所に点在し、当時の自然信仰を偲ばせると紹介されている。

さて、飯道山であるが、何年振りかの訪問になった。その前は、いつだったかは思い出せない。ただ、クモガタヒョウモンを初めて撮影したところであることは覚えている。いつでも見られると思っていたが、その後は機会に恵まれていない。今回は、飯道神社駐車場から神社を見た後、山頂に着いた。その後は、稜線上をアセボ峠まで歩き、峠から53号線を歩いて駐車場まで戻った。

 自宅(7:50)−飯道神社駐車場401m(9:45、9:52出発)−飯道神社分岐(10:12)−飯道神社591m(10:16〜10:28)−分岐(10:33)−林道−林道分岐・飯道寺跡案内板(10:48)−飯道山山頂664m(11:10〜11:26)−稜線の昼食ポイント(12:00)−林道出合521m(12:54)−白草山613m(13:14)−アセボ峠(13:35)−大納言山林道分岐(13:41)−林道折り返し点(13:50〜13:55)−53号線合流点(14:01)−53号線分岐(14:27)−飯道神社駐車場(14:42、14:52出発)−自宅
           行動時間:4時間51分   歩行距離:7.6q  累積登高:565m

飯道神社と書かれた大きな石碑と石の鳥居をくぐり、石段を登る。
登山口、大きな石碑と石の鳥居
すぐに普通の道になり、針葉樹・広葉樹の混じった登山道になる。石の地蔵、クマザサが続く。登り切った先が神社への分岐で左に入る。見晴らしの良いところで、トイレもある。昔の神社の外観が表示されている。その先が飯道神社である。
飯道神社

飯道山惣絵図
比較的大きな広場で、その奥に登ることができ、大きな岩の上からは湖南平野や、山並みが見られる。しばらく眺めた後、佐仁の分岐に戻り、スギ林の中を遠巻きに進む。石垣のある遺跡の中を進むこともできる。しばらく進むと林道に出て、先の道と合流できる。ハイキングマップも表示されている。林道をしばらくで、山頂への表示が出てきて登山道に入る。クマザサが生い茂り、昨日の雪が残っていたり、ササが湿っていたりで足元が濡れる。
クマザサとスギの木、雪の白い筋が

雰囲気の良い道を20分強で山頂に着く。濡れたベンチがある、そこそこの山頂広場になっている。西方向が開け、遠くの山が眺望できる。手前の山越しに三上山の上部が顔を出す。

山頂広場
お昼には早く、長めの休みのあと、アセボ峠に向かう。小さな表示で、上級者向けと記載がある。クマザサの急な下り坂を一気に下る。植林の道から、広葉樹の道へ続く。やせ尾根、アップダウンが続く。所々で倒木もあるが、何とかテープもあって、面白い歩きになる。時々、樹間から周辺の山々が望める。途中、昼食タイムになり、細尾根のピーク辺りで腰を下ろす。
少し長めの昼食休憩を取る。やっと重い腰をあげ、しばらく進んだ先で北方向の視界が広がる。しばらく明るい稜線を進み、一気に林道へ下る。下った先の林道は、かっての林道といった格好の道で、半ば廃道に近い。先が分かりにくかったが、何とかテープを確認し、急坂を登る。途中、地肌がむき出しのところに出ると鈴鹿山系の眺望が広がる。

白くなった鈴鹿山系の眺望

林道出合いから20分ほど、登り切った先が白草山である。山頂表示が出ているが、地図上では山名が出ていない。
白草山613m

白草山からアセボ峠への20分は比較的広い稜線の道になる。広葉樹、スギ林の道である。比較的ゆったりの雰囲気で今までとはずいぶん違った雰囲気である。クマザサの道を下ればアセボ峠である。さらに直進する格好で尾根筋の道を探したが、峠の両方とも踏み跡は確認できなかった。
峠の地蔵

峠から駐車場に向かうが、すぐ下った先から派生する林道に入る。車止めがされており、横から林道に入る。6月には地元甲賀市のササユリを観察する会が開催され、ふもとの集落からこの林道の終点である大納言山のすぐそばの電波中継地に行くことができる。その大納言山への尾根筋道があるかもしれないと思い、すすむ。地図上で道が派生するところまでくるが、それらしい踏み跡はなく、しばらく休んだのちに引き返す。元の53号線に戻り、ゴルフ場に沿って53号線を下る。下った先で、飯道神社への道を取り、やっとのことで駐車場に戻った。

車道歩きがあるとはいえ、アセボ峠を入れ込んだ周回コースは中々に変化もある楽しいコースだった。駐車場では、朝にはなかった車も2台駐車されていた。車で帰える途中の車道では、山頂で出会った方に出会い、一言挨拶を交わした。

コースマップ(YAMAPより引用)
(国土地理院の地図を引用)

注釈:
・飯道寺(はんどうじ)は滋賀県甲賀市にある天台宗寺院。山号は金奇山(こんきさん)。もとは南都と関係深い山岳寺院として飯道山の山上に成立し、中世から近世にかけては有力修験寺院であった。明治維新に際しいったん廃寺となり、明治25年、北麓の三大寺に所在した天台宗本覚院が、その寺号と法燈を継承した。これが現在の飯道寺である。紫香楽宮跡を見下ろす飯道山の山上には現在もその寺坊跡が広範囲に残るほか、かつて同山の鎮守として祀られた飯道神社(旧称・飯道権現社)が現存する。滋賀県甲賀市の飯道山(はんどうさん、標高664メートル)がそびえている。山上に鎮座する飯道神社の祭神として穀物神の宇賀御魂神および、弁才天を習合する飯道権現が挙げられている(『飯道寺古縁起』)こと、飯道山を水源とする水への民俗信仰が伝わることから、山麓住民による分水信仰があったことがうかがわれる。また、紫香楽宮の造営や奈良東大寺大仏殿の修覆に際して、信楽杣産の木材が用いられたことに因み、飯道権現を信楽杣の森林支配の神とする国家の承認があったと見られている。こうした背景により、飯道山にあった飯道神社および飯道山は重要な修験道の霊場であり、山岳仏教の道場としての色彩をも帯びていた。山上に残る僧房跡には高野山中興といわれ、慶長13年(1608年)にこの地で没した木食応其の墓がある。


・飯道神社(甲賀市):滋賀県にある神社である。詳しくは飯道神社 (甲賀市)または飯道神社 (湖南市)の節をそれぞれ参照のこと。飯道神社(いひみちじんじゃ、はんどうじんじゃ)は滋賀県甲賀市にある神社。近世以前の神宮寺であった飯道寺とともに修験霊場として知られていた。現在の神社の公称は「いひみちじんじゃ」。「いひみち(いいみち)」の読みは『延喜式』にある訓注によるものであるが、中世以降、飯道寺(はんどうじ)が著名となったため、それに引かれて「はんどうじんじゃ」とも読まれるようになったらしく、地元を始め後者で呼ばれることも多い。本来の祭神は原始山岳信仰の対象である飯道神であったが、現祭神は後世に熊野修験の影響から勧請されたものと推定される。歴史:滋賀県甲賀市の飯道山(はんどうさん、標高664メートル)に鎮座する。祭神として穀物神の宇賀御魂神および、弁財天を習合する飯道権現が挙げられている(『飯道寺古縁起』)ことや、飯道山を水源とする水への民俗信仰が伝わることから、山麓住民による分水信仰があったことがうかがわれる。和銅年間に熊野本宮から分霊したと伝えられる。古くは宝亀2年(771年)の勅符に封戸1戸を与えられたとあり、『三代実録』元慶8年(884年)3月27条には従四位下に昇階したとの記述が見られる。紫香楽宮の造営や奈良東大寺大仏殿の修覆に際して信楽杣産の木材が用いられたことに因み、飯道権現を信楽杣の森林支配の神とする国家の承認が封戸の授与や飯道権現の祭祀に結びつき、さらには東大寺二月堂守護神として飯道権現が祭られることにつながったと考えられている。久安2年(1146年)に「飯道権現」の勅額を受け、中世には油日大明神とともに甲賀郡の住人に崇敬された。戦国期には甲賀忍者の修行の場でもあったという。明治の神仏分離により、神宮寺であった飯道寺は廃寺となり、飯道神社は村社に列せられた。飯道山は全山が花崗岩からなり、西覗き岩・不動押し分け谷・蟻の塔渡し・胎内くぐり・鐘掛岩などの奇岩が各所にあって、1951年(昭和26年)に再興された飯道山行者講の修行場となっている。山上には、往時の遺構が他にものこり、飯道寺跡・行者堂・弁天堂・五院跡・木喰上人応其墓などがある。
・飯道神社 (湖南市):飯道神社(いいみちじんじゃ)は滋賀県湖南市にある神社。素盞鳴尊を主祭神とし、菅原道真を配祀する。明治6年(1973年)に現在地に遷座した。(ウイキペディアより)

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作成日: 2020年4月17日