14)安土山 198m :2021年2月20日 2021年山の記録に戻る 安土山は滋賀県近江八幡市にある山である。標高は198mで、琵琶湖の東にある。16世紀、織田信長によって安土城が築城された。山頂には日本では初めての本格的な天守が築かれた。本能寺の変の後、城は焼失したが当時の石垣や石段は健在で、当時の華やかさを偲ぶことができる。 雪野山・安吉山(安妃山)全域とその周辺を紹介した “山をあるこう” というガイドマップがある。パンフレットの一部に雪野山周辺の山として12座が紹介されている。1昨年前からあらためて登ることにした。残っている2山、安土山と布引丘陵を歩いた。安土山は何年来か忘れたが、整備が行き届き大きく変化していた。歩くには注意が必要である。 安土山駐車場(9:51出発)−取付口(10.00)−遺跡(10:07)−石垣跡(10:18) -安土城跡階段口(10:28)−山頂(天主閣跡)(10:51)−三重塔(11:13)−山門(11:17)−舗装道(11:23) − 神社(11:28)−駐車場(11:54) 行動時間:2時間3分 歩行距離:3.3q 累積登高:242m 安土山の大手門前の駐車場に車を止め、山麓に沿って、北腰越に行き、付近の取付口から山中に入る。石垣の低いところから上に入り進むと散策道に出る。右手に見える地蔵が積み重なったところで見学する。 蔵が積み重なった遺跡 戻って更に行くと寺から登って来た道と合流し、山に向かって進む。歩く人が少ないのか、登山道にはコケが敷き詰められ、幻想的である。左手はやや崖で、右側には安土城の石垣が残っている。あちこちに地蔵が置かれている。ゆっくりと進んでいくと、更に壁となった大きな石垣が現れ、右手にある階段を登って石垣の上に出る。 規模の大きな石垣遺跡 スギ林の中に、点々と地蔵や遺跡がある。山全体がお城だったのだと気付かされる。なおも進むと通行注意の表示が出るが、先を進むと、ハ見寺(そうけんじ)に出る。外からは入ることが制限されている。本来の本堂(本堂跡からは琵琶湖方面が眺望できる)はなくなり、二王門と三重塔(いずれも帰り道にある)が残るのみとなっている。大手道の石段に出る。石段のある大手道の左右は、羽柴秀吉と前田利家の邸宅跡である。石段の一部に石仏が使われ、表示が出ている。当時からあったのだろう。上に行くとヒノキの広場に出る。本丸跡と記載されている。更に順路に沿って詰めると天守閣跡である。広場に礎石が置かれている。このあたりが安土山の山頂であろうか。最高点であるらしい。 下山は、本丸跡からは拝観コースに従って歩く。信長公本廟や小田信雄四代供養塔を見て、ハ見寺本堂跡に出る。眺めは素晴らしい。 本堂跡から少し下ったところにに三重塔があり、少し傾いているように見える。安土城より古い室町時代の創建だ。三重塔から石段を下り、二王門をくぐる。金剛力士像がある。国の重要文化財となっている。 三重塔 二王門 石段を下り、左に曲がり、下りになった所を横切って竹林から出た。舗装道を反対に出て神社を見学後、駐車場に戻った。お昼には早く、次の布引山で取ることにした。 注釈:安土城 安土城(あづちじょう)は、琵琶湖東岸の、近江国蒲生郡安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)にあった日本の城(山城)。城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域になっている。安土城は織田信長によって現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は郭が琵琶湖に接していた(大中湖)[注釈 1]。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。総奉行は丹羽長秀、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった。 この安土城を築城した目的は岐阜城よりも当時の日本の中央拠点であった京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。城郭の規模、容姿は、太田牛一や宣教師の記述にあるように天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。 日本の城の歴史という観点からは、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり初めて石垣に天守の上がる城となった、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団「穴太衆」はその後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった、という点でも重要である。 城郭遺構は安土山の全体に分布しており、当時の建築物では仁王門と三重塔が、現在 城山の中腹に所在するハ見寺の境内に残っている。また二の丸には信長の霊廟が置かれている。 滋賀県は1989年(平成元年)から20年にわたって安土城の発掘調査を実施した。南山麓から本丸へ続く大手道、通路に接して築造された伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸、天皇行幸を目的に建設したとみられる内裏の清涼殿を模した本丸御殿などの当時の状況が明らかとなり、併せて石段・石垣が修復工事された。調査は当初予定通り2008年(平成20年)度の予算をもって2009年に終了した。20年間で調査が実施されたのは史跡指定面積の約20%(17ヘクタール)にとどまったが滋賀県の財政事情から事業継続には至らず、全域の調査(50年から100年必要とされる)は将来にゆだねられることとなった。 コースマップ(YAMAPより引用) (国土地理院の地図を引用) 2021年山の記録に戻る 作成日: 2021年2月24日 |