3)長命寺山333m :2021年1月6日 2021年山の記録に戻る 長命寺は、西国三十三所の第三十一番札所にあたり、かっては三十番札所の竹生島宝厳寺から船で長命寺に参詣したということである。それに山を加えた長命寺山は、それほど知られておらず、樹林帯の中の平凡な山頂である。最近の台風の影響で、倒木があって荒れ果てた雰囲気がある。岡山(水茎岡山城址)を登った後、初詣を兼ね登った。参拝客もちらほらと見られた。 長命寺前麓駐車場(13:15、13:20出発)−長命寺参拝(13.35〜13:40)−分岐(13:44)−長命寺山(13:48〜13:51)−分岐(13:54)−車道(14:00〜11:45、)−長命寺前麓駐車場(14:18〜14:25出発) 行動時間:58分 歩行距離:2.7q 累積登高:245m 長命寺と書かれた石柱が石の階段前にあり、808段の石段が続く。幅広の階段であるが、一気に登り詰めた。数名の参拝客があった。上の駐車場には数台止まっていた。本堂でお参りを済ませ、琵琶湖南側、鐘楼、塔などを撮影し、山頂へ通じる道に合流する。昨年に歩いたところで、本来は寺の駐車場に戻らなければならないが、鐘楼前の舗装道を進むと、上の方の針金の垣根の下がくぐれるように曲げられている。 鐘楼、本堂、五重塔 境内からの湖南の山々 ここを抜け、登山道に入る。しばらくで長命寺山への分岐になり、表示が出ている。倒木があって歩きにくいが踏み跡のある道を進めば、5分ほどで山頂である。年末の雪が少し残っている。足元には、マンリョウの赤い実がなっている。冬場で葉が散っているとはいえ、何もない見通しのきかない山頂である。撮影を済ませ、早々に引き返す。元の道に戻り、先ほどの合流した所をそのまま通り過ぎる。前掛けを掛けた地蔵さんが無造作に置かれている。結構な数である。 無造作に置かれた地蔵 ここを過ぎすぐに上の駐車場からの車道に合流する。曲がりくねって、歩く距離は長くなるが、古いお寺や廃屋を見ながら下る。下った先は階段の登り口で下山終了である。駐車場に戻り、港に出て先ほど登った岡山の入った琵琶湖の写真を撮った。 港から岡山(水茎岡山城址) 注釈: 長命寺(ちょうめいじ)は、滋賀県近江八幡市にある寺院。山号は姨綺耶山(いきやさん)。西国三十三所第三十一番札所。天台宗系単立。聖徳太子の開基と伝える。琵琶湖畔にそびえる長命寺山の山腹に位置し、麓から本堂に至る808段の長い階段で知られる。かつての巡礼者は、三十番札所の竹生島宝厳寺から船で長命寺に参詣した。伝承によれば、第12代景行天皇の時代に、武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り長寿を祈願した。このため宿禰は300歳の長命を保ったと伝えられる。その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている。実際の創建年次や創建の事情については未詳であり、確実な史料における長命寺の寺号の初見は、承保元年(1074年)3月2日付の「奥島庄司土師助正畠地寄進状」という文書である。元暦元年(1184年)、佐々木定綱が戦死した父佐々木秀義の菩提を弔うために、三仏堂を建立したのを皮切りに、平安時代後期に仁王門、本堂、鐘楼、太子堂、護摩堂、宝塔などを建立し、伽藍が整った。鎌倉時代を通じて近江守護佐々木六角氏の崇敬を受けている。長命寺には中世以降の文書が豊富に残されている。それによると、中世の長命寺は比叡山延暦寺西塔の別院としての地位を保ち、室町時代に入っても変わらずに守護六角氏の崇敬と庇護を受けて栄えた。しかし、永正13年(1516年)、六角高頼と伊庭貞隆の対立による兵火・伊庭氏の乱により伽藍が全焼する。現存する堂宇は室町時代から江戸時代初期にかけて再建されたものである.本尊は、「千手十一面聖観世音菩薩三尊一体」、つまり、千手観音、十一面観音、聖観音(しょうかんのん)の3体が長命寺の本尊であるとされている。本堂内陣の厨子には、中央に千手観音像、向かって右に十一面観音像、左に聖観音像が安置されている(いずれも重要文化財、秘仏)。 コースマップ(YAMAPより引用) (国土地理院の地図を引用) 2021年山の記録に戻る 作成日: 2021年1月7日 |