5)賤ヶ岳 関西百名山 421m : 1997年8月24日  関西百名山に戻る
賤ヶ岳は古戦場として知れ渡っている。1583年(天正11年)、陣を構える羽柴(豊臣)秀吉は、、越前から余呉湖地方の柳ヶ瀬に入った柴田勝家と歴史的なI戦を交え、「賤ヶ岳七本槍」といわれる武将の活躍で勝家方を潰滅させた。この合戦の跡が随所に残り、興味の尽きない山となっている。大岩山には前哨戦となる戦いで勝家方の佐久間盛政の急襲でなくなった秀吉方の武将である中川清秀の墓か残っている。この報で秀吉が大垣からとって返し、全面的な合戦になった。この古戦場ばかりでなく、「新雪、賤ヶ岳の大観」として、琵琶湖八景に数えられる景勝地としても知られている。山頂からは、北に天女羽衣伝説を秘めた余呉湖、南に奥琵琶湖の眺望が得られる。

守山駅(7:42)〜長浜(8:31、8:32)〜余呉(8:52、8:55出発)−大岩山(中川清秀の墓)−賤ヶ岳(10:05)−山本山山頂(12:15〜12:35)−山本(13:00、13:07バス)−河毛駅(13:20)〜長浜〜守山駅 
       歩行時間:4時間15分(含む休憩時間)

 余呉駅から通りへ出て左へすすむ。。江土の集落に入り、道標に従って、コンクリート道を登っていく。なだらかな道を行くと,木の間から余呉湖が見える。自然が保たれた広葉樹林が続く。駅から25分弱で大岩山の中川清秀の墓に着く。いくつもの標識が建っている。首洗い池,猿が馬場の説明板を見て、木之本への分岐を通り過ぎると本格的な登りになる。45分ほどで、賤ケ岳山頂に着く。400年余り前に羽柴秀吉と柴田ヨ勝家が戦った古戦場である。琵琶湖八景のひとつ、「新雪 賤ケ岳の大観」に相応しい眺めだ。北に余呉湖、西に奥琵琶湖が広がる。飯浦も足元に見える。左手の竹生島も存在感たっぷりだ。東方の湖北平野の奥に伊吹山の堂々たる山容がひときわ目を引くん。南には、これから縦走する丘陵が重なりあって見える。山本山はその先に頭をのぞかせている。小刻みにアツプダウンを繰り返す。それほどの傾斜でなく、思ったより快適に進むことができる。車道を横切る。余呉湖が見える。標高150m、山幅も350mと狭い。[古保利古墳群]の案内板がある。ようやく眺めがよくなる。片山トンネルの上を過ぎると、山本山の登りになる。標高差は120m、 山本山の頂上は広場になっていて、山本山城址の名残りが感ぜられる。ここで昼食にする。冬の時期、山本山の松の木に、オオワシがとまる。多くの写真家が集まるホットスポットになる。琵琶湖が眺められ、竹生島がぐっと近づく。山頂から、急坂を下り、常楽寺のたくさんの羅漢を通り、朝日神社の前を行った余呉川の横にバス停がある。コミュニティーバスで河毛駅にでて守山駅に戻った。写真は残念ながらなしである。


補足説明
・賤ヶ岳の戦い
  山崎の合戦後,秀吉は織田信長の後継者としての地歩を着々と固めたが。柴田勝家や滝川一益が信長の三男信孝と結び,これに対抗した。天正11年(1583)4,弓,勝家 は佐久間盛政に賤ヶ岳北東方の大岩山の砦を攻めさせた。秀吉軍の中川清秀が迎え撃つが大軍に抗すべくもなく截死する。織田信孝と大垣城で対戦していた秀吉がこの報 を受けたのが4月20日の正午ごろ。数十%の道のりを5時間余りで木之本まで取って返し,翌未明,賤ヶ岳に向けて攻撃を開始した。深入りした佐久間勢は激戦の末に敗北する。このとき加藤清正など秀吉の7人の小姓たちが抜群の手柄をたてたのを称してE賤ヶ岳の七本槍]という。勝家は越前(福井県)の北ノ庄城に敗走したが,秀吉の急追に陥落し,23日自刃した。二の戦いが秀吉の天下統一の糸口となったのである。

ルートマップ

(国土地理院の地図を引用)

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作成日: 2016年5月29日