――――絶対、絶対、帰ってきてね・・・・・・


――――必ず此処へ、お前を迎えに戻って来る。


――――約束、だからね・・・・・・


――――あぁ・・・・・・約束だ。





会者定離


永懐







暦の上ではもう春も半ばだと云うのに、
此処、伏羽琉ふ ば る 遊郭に、まだ桜は咲いていなかった。
だが、それでも、新緑の息吹を感じられるほどに、柔らかな日差しは
春の訪れを告げている。
莟すら付けていない桜を見ながら、綾女は溜め息を吐いた。



「だから――――ぐれさんは、とても人と面会できるような状態ではないと・・・・・・
先刻さっきから、何度もそう云ってるじゃないかっ!!」

新米の禿かむろの「しぐれ」という少女が、紫呉との面会を望んでいる――――
そう女郎から何度も聞かされて、綾女はうんざりしたような口調で叫んだ。



狂って行く紫呉を見て、このまま、慊人に殺されるくらいなら。
いっそ、この手で――――
そう思って、何度紫呉の首に手を掛けたか解らない。
ほんの少し、手に力を込めれば、紫呉は楽になれるというのに。
それでも綾女には、如何しても、紫呉の首を締めることは出来なかった。



風が綾女の髪を撫でて、通り過ぎる。
疲れ切った綾女の表情を眺めて、女郎は、最後の切り札とばかりに、
勿体振った口調で後を続けた。



「紫呉太夫が臥せっている原因は、草摩はとり様が原因で御座いましょう。
禿のしぐれが、はとり様の遺品を所持していたとしても・・・
その見解に変わりはありませんか・・・?」


「なん・・・だって・・・・・・っ―――!?」


今、この女郎は何と云ったのだろう。
真逆、禿のしぐれは、はとりの最期に立ち会った人物なのであろうか。
若し、そうだとしたら――――


紫呉を連れて直ぐにそちらへ向かうと女郎に告げ、綾女は部屋を飛び出した。
息急き切って、転がり込むように、紫呉の部屋へと入る。



――ぐれさんっ!!とりさんの・・・はとりの――――・・・・・・」



その時。
初めて、紫呉が綾女を見た。
それまで、廃人のように放心していた紫呉が、深淵のような双眸を向けて、呟く。



「はーさんが・・・・・・?」



決して振り返ることのない、見えないはとりの背中へ向かって、
紫呉が届かぬ指先を伸ばして、立ち上がった。
憔悴し切った躰を壁で支えるように、千鳥足で、フラフラと進む。



はとりが帰ってきたのかもしれないという狂気と、
はとりの死を受け入れようとする正気の狭間で、
今、紫呉は苦しみつつも、必死で闘っているのだ。



綾女は居た堪れなくなって、思わず目頭を押さえた。

そんな紫呉を後押しするかのように、風がそよぐ。
緑色の鮮やかな葉が、風に揺れた。


















                         *




















柔らかな光を浴びる中庭が望める回廊。
その柱に凭れて、少女は紫呉を待っていた。
温かな風と戯れるかのように、軽やかに空を舞う蝶。
木綿の縞に、紫の綿繻子の半襟を着て、さらに、納戸色の胸掛けを掛けたその姿は、
昔の紫呉を彷彿させた。
覚束無い足取りで、それでも何とか辿り着いた紫呉を見るなり、少女が駆け寄ってくる。



「太夫様・・・・・・どうか、これを――――



そう云って、少女が、大切そうに着物の胸元から取り出したのは・・・・・・
自分の名前が彫ってある、焼け焦げた簪だった。





刹那――――





「ああああああぁぁぁぁぁ―――――――!!!・・・・・・・」
それはまさしく慟哭だった。
堰を切ったように流れ出す涙、叫びにも似た泣き声。
その時、初めて紫呉は、声を上げて泣いた。



解っていた。本当はもう、ずっと前から、解っていたんだ。
はとりは、もう、自分の処へは戻ってこない。
そんなことは、解り切っていたのに――――



全ての感情を外へ押し出すかのように、紫呉は、ただひたすら、
声を上げて泣き叫んだ。
失ったものを取り戻すかのように・・・・・・



「太夫様・・・?如何したの・・・?何処か、痛いの・・・・・・?」



心配そうな顔で自分を見上げた幼い禿を抱き締めて、紫呉は首を振りながら泣いた。
少女はそんな紫呉を見て、何かを悟ったのかもしれない。
慈しむような眼差しで、空を眺めた。



一頻り泣いた後、真っ赤に充血した瞳で、紫呉はその少女から、簪を受け取る。



瞬間。


―――・・・俺が、持っているのは、お前の名前が彫ってあるものだ。
無事に此処へ帰ってきたら、これを交換するんだ・・・・・・

――――三年だ!!三年経ったら、必ず、此処へ、お前を迎えに戻って来る・・・・・・
そうしたら一緒になろう――――!!!


紫呉の脳裏に、あの日のはとりの声が蘇った。





あぁ・・・・・・帰って・・・・・・帰ってきたんだね。はとり――――





「・・・お帰りなさい――――はぁさん・・・っ――――!!!」

震える手で、それを強く握り締めると、紫呉は溢れてくる感情と共に叫んだ。
哀しい時は、泣きたいだけ、泣けばいい。
嬉しい時は、笑いたいだけ、笑えばいい。
そんな当たり前の感情ですら、解らなくなりかけていたというのに・・・・・・


「太夫様・・・・・・」


強く握り締めた両手を緩やかに開くと、紫呉は暫らく簪を見つめ――――
そして、それを少女の髪に挿した。
踵を返す。
それに合わせるように、着物の裾が翻った。




―――っ!?これは・・・太夫様の、大切なものなんでしょう・・・・・・?」
背後から、驚いたように叫ぶ少女の声が聞こえてくる。
少女は恐らく、戸惑っているのであろう。
迷いはない。恐らく、これで良いのだ。
はとりは恐らく、最期に自分の想いを託して、少女にそれを手渡したのだろう。





「それは――――キミにあげるよ。大切に・・・・・・どうか、大切にして欲しい」





そう云って振り返った紫呉の瞳に、もう涙は浮かんでいなかった。
あるのは、未来を見据えた強い瞳。
この少女は、これから、どのような道を辿って行くのだろうか。
幼い年で禿になったこの少女の未来が、どうか明るいものであらんことを――――


遠くの方から、風の音に雑じって三味線の音が響いてくる。
穏やかな春の光が、想いと共に、紫呉を包み込んだ。

















                         *



















淡く化粧をし、女物の衣装を着ける。

髪は京風の兵庫。
緋の長襦袢に白の刺のかけ襟、襟は折返して裏の緋を覗かせている。

中着は裾綿入りの三枚重ね。
一番上の間着には所謂、島原褄といわれる刺の文様がある。
次は白地、三枚目は緑地、幅広の帯を前でのし結びにして、
その上から美しい打ち掛けを掛ける。

素足のまま三枚歯の黒塗りの下駄を履いて、紫呉は舞台に立った。





三味線の主旋律に添うように響く、鼓の音が耳に届く。
軽く深呼吸をすると、紫呉は音楽に合わせてゆっくりと唄い、そして舞い始めた。





"〜我が恋は月にむらくも花に風とよ、細道のこまかけて、思ふぞ苦しき、山を越え

里をへだてゝ人をも身をもしのばれ申さん、なおなおに歌にふしとはおもひ候へど、

それふく笛は宵のなぐさみ、小唄はよなかの口ずさみとよ、

あかつきがたに思ひこがれて吹く尺八は、君にいつも双調、別れて後はまた黄鐘、

春雨のしだれ柳のうちしほりたるを、見るにつけても此春葉にと、

世の中の人と契らば薄くちぎりて、末までとげよ〜"






打ち掛けの裾が円を描く。
重力を感じさせないその姿は、まるで天女が羽衣を纏っているかのようであった。
桜の花びらを模した扇の柄が、紫呉の貌を隠しては見せ、見せてはまた隠す。

本来ならば、はとりに見せるはずだった舞。
彼の言葉が頭を過ぎる。



「紫呉―――良い名前だな」
そう自分の名前を呼んでくれた時、本当に嬉しかったんだ。



「あまり、自分を安売りするもんじゃない」
初めて出会った瞬間ときから、他人ひとのことばかりに一生懸命で。
それでも、その言葉に、どれほど、救われただろう。



「・・・・・・これを着ていろ」
拒絶して振り払った手を、また優しく包み込んでくれた。



「不安にさせて―――悪かった」
自分を抱き締めてくれたはとりの腕の中は、とても温かくて。
何時だって、甘えてばかりだったね。






でも、僕は・・・・・・
そんな君が、大好きだったんだ。






紫呉の動きに合わせて、フワリと着物が揺れた。
今にも触れることの出来そうな、空気との舞。
愛しい人への想いを込めて、紫呉は踊る。





「・・・生きろ。そして、幸せになれ、紫呉――――


「紫呉は・・・どうか・・・紫呉は倖せになって――――



はとりと佳菜の二人の願い。
託された願いは、時を経て今、永遠となる。

見えない力に背中を押されるかのように、紫呉は強く舞った。
生きて。生きて。
どうか、強く、強く――――



「・・・ほぅ」
その見事なまでの凛とした紫呉の舞に、客席からは、感嘆の溜め息が漏れた。
しかし、綾女も含め、客たちは不思議に思う。
舞っているのは、紫呉ただ一人。
それなのに――――
紫呉の視線の先には、誰かがいる。


君が、好きだ。
有り難う、はーさん・・・・・・
もう、大丈夫だから。
もう、苦しむことはないから。
だから・・・
だから、一緒に、夢を見よう・・・・・・?


紫呉は今、二人で踊っている。
目に見ることは出来ない。触れることすら叶わない。



それでも――――




光の幻の中、紫呉は微笑みながら、はとりと踊る。
裾から伸びる、白い肌。
扇を操る洗練された腕。
伸ばした袖を摘む、細い指。
くるりと扇は翻り、紫呉は雅この上ない舞いを、大歓声の中、締め括った。






















                         *
















「本当に・・・行ってしまうんだね」
寂しげに、綾女が微笑む。
紫呉が、色々迷惑を掛けてしまったことを詫びると、
「何云ってるんだいっ!僕とぐれさんの仲じゃないかっ!!」
水臭いぞ――――と軽く交わされてしまった。



今日の舞台を最後に、自分は此処を去る。
禿のしぐれは、如何やら、はとりから、身請証文を預かっていたらしい。
紫呉がその紙を見た時、貰主の部分には、はとりの名前と押印された印章があった。


さらに、はとりの死後、自宅から彼の書いた遺書が発見された。
それに拠れば、彼は死後、全遺産を自分に相続させるつもりであったらしい。
その事実を幕府から知らされた時、最初、紫呉は迷った。
だが、それがはとりの願いならば――――と最終的には受け入れることにしたのである。


そして遂に今日、はとりから受け継いだ遺産と、身請証文によって、
紫呉は解放されたのだ。





送っていこうか、という綾女の申し出をやんわりと断ると、紫呉は袖を翻して踵を返した。
綾女には、此処を守るという使命がある。
そして、自分には、自分の成すべきことがあるから――――
廓を出る。
大門の所まで来て、一度だけ伏羽琉ふ ば る 遊郭を振り返ると、
紫呉はまた、前へ向かって歩き出した。




自分は狂おしい程に、はとりを愛していた。
狂っていたあの頃、自分は寄り添うように葉を重ねる木々の隙間に、はとりを見ていた。
白い肌と森の緑の色が溶け合うその瞬間、 自分はそこで神秘とは云い難い
不思議な光景を見たのである。
だけど、それは束の間の幻。
夢から覚めて、現実に返った時、自分の隣に、はとりはいなかった。



それでも――――



この切り取られた日常の中で、僕は生きる。
寂れていく毎日に身を晒して、偶に呼吸をすることを忘れてしまったとしても、
僕は生きて行くから。
隣にいる君の温かさを感じて、二人の切なさを想って。
どんな感情も全て受け止められるように。
泣いて、笑って、叫んで。そうして生きて。
今はただ、振り返らずに。君が君の信じた道を歩んだように、
僕も僕の道をきっと探して行くから。
いつか、また。
君と――――巡り逢えるように。


仮令、君と別れることが運命であったとしても――――




はとり・・・君と出逢えて、本当に良かった。










                         *










その後、紫呉の行方は知れない。
紫呉は尼になったのだと云う人もいれば、草摩家を継いだのだと云う人もいた。
だが、未だに彼の姿を見た者は、一人もいない。








                         *







一八六八年 明治維新。






一八七二年 娼妓解放令発布。






一八七三年 娼妓規則・貸座敷渡世規則発布。






一八七九年 公娼廃止運動開始。






一九〇〇年 娼妓取締規則発布。






一九一六年 貸座敷引手茶屋娼妓取締規則改正。






一九四六年 娼妓取締規則廃止。






一九四八年 風俗営業取締法公布。性病予防法公布。






一九五六年 売春防止法成立公布。






一九五八年 売春防止法実施。











                         *








時は流れる。穏やかに。
人はその歴史の中で、時に立ち止まり、時に振り返り、そして再び歩き出す。
新しい未来を創るために。人が、人として生きるために。
歴史とは、過去から未来へ向かう、前向きの過程プロセスなのだ。
幾つもの季節が巡り巡って、そうしてまた、今年も春がやって来る。






















二〇〇二年 春 ――――――――――――――――――――








賑やかな観光地の一角に、一軒の料亭がある。
そこは数百年前、伏羽琉ふ ば る 遊郭であった場所だ。
眺望の開けた絶景の地にある桜の古木は、春になると、
何かを待ち焦がれていたかのように一斉に咲く。




「・・・ねぇ、ねぇ、お母さん。こんな所に、文字が彫ってあるよ――――



風情のある料亭――――その少し前を、仲の良い母と娘が、手を繋いで通り過ぎていく。
少女が、指差したのは、柳の木の幹に刻まれた二首の和歌。


「・・・そうねぇ。誰が、彫ったのかしら・・・」


幹に彫り刻まれたその文字は、長い年月を経たせいか、所々、消えかかっている。
一旦、立ち止まってそれを眺めた親子は、目を細めて、
また何事もなかったかのように歩き出した。
歌うような少女の声が、風に舞う。


その地に、深く哀しい思い出が眠っていることは、誰も知らない。


会者定離。
出逢った者は、何時か必ず、別れる時が来る。
しかし、別れを恐れていては、出逢いはありえない。
離れ離れになってしまったあの二人は、来世で再び巡り逢うことが出来ただろうか。



――――大好きだよ、はーさん――――



沢山の人の想いを乗せた穏やかな風が、今日もこの地を通り過ぎて行く。
その風の行き着く先は、誰もが望む未来だろうか・・・・・・
空は何処までいっても、青かった。





〈了〉


後書き