31)菩提寺山 353m :2020年5月21日 2020年山の記録に戻る 2020年花・鳥・その他に戻る 湖南市と野洲市の境界にある山である。標高は353mで、「甲西富士」と呼ばれる。別名、「竜王山」で、南峰に竜王社の祠がある。「菩提寺山」、「桜山」とも呼ぶ。 北東の方角は、鬼門と言われているが、奈良興福寺の忌門に当たるところに大菩提寺〈36坊)、南、北菩提寺(湖東町)があったという(戦国時代、信長の焼き討ちに遭い灰塵になった)。寺の名前が地名となり今に残っているのである。この地一帯は少菩提寺(興福寺の別院)があり数多くの大伽藍が雄大な姿でそびえたっていた。奈良時代聖武天皇が発願、良弁僧正が創設した古刹である。1492年の記録のある古絵図に盛時の状況が克明に描かれており現存の西応寺(禅祥坊が前身)の寺宝である。山頂に 西応寺の寺庭夫人に見せていただいた古絵図には山頂に妙見堂が描かれており当時は山自体が崇拝の対象となっていたものと思われる。妙見堂の建っていた地に今は竜王山の名の通り竜王の小さなお社が祭られている。 人々は干ばつになると白い布の幟を立てて松明を手に竜王に雨乞いをした。子供が真似をして火事を起こしたとの昔話も伝えられているそうです。山麓には現在は西応寺他三寺が残るのみ。登山コース 里人は今も竜王を祭り、その為の道が西応寺の庭園の左手横から付いている。最近大手新聞で野洲側から登り甲西へ下るコースが紹介されてボツボツ登山者があるそうです。 最近野犬が15匹ほど出没しているのでご注意くださいとご住職の話を聞き、熊もこわいけど野犬もこわいなあと心配になる。ご住職は「大声を出したら逃げる」と言われたので、木切れを片手にワメキながら歩き始める。(登山者に会えば恥ずかしいが、この時期私の他この山に登っている人も無いだろうと考えたーー実際、誰にも会わなかった。)すぐ汗が噴き出してきたので上着を脱ぎ、中腹まで来て野犬に遭遇しなかったので一安心の気分となる。ふもとは少し植林されているが、すぐ松の混じった自然林となる。昔はお寺のすぐ裏にも松茸が採れ、むしろに一杯も簡単とのお寺のおばあちゃんのお言葉。 上に行くほど坂は傾斜を増し、落葉で滑らないように気を付けながら歩く。標高150mの登山口から山頂まで標高差200mくらいなので私は20分で登ったが、ゆっくり歩いても30分はかからないと思う。山頂は三等三角点のある最高点と鞍部をはさみ少し低いピークに竜王社とテレビアンテナの建つ広場からなる。古絵図にはここに奥の院の建物が見える。頂上の三角点は背の高い雑木に囲まれ展望は全くきかない。野洲側へ少し下ると、正三角形の近江富士がすぐ眼前に朝霧の中に見える。二つの富士が名神自動車道を挟んで並んでいるのだ。静かだ、小鳥のさえずりも聞こえる。ああ又ひとつ富士に逢えた。野洲方面へ下山できるが、道は荒れており新聞で紹介されるまでは一部の愛好者以外には忘れられた道のようだ。 もと来た道をまたワアワア言いながら下る。 絵図にはまた、中腹に「加持水」が画かれているが、その存在も今では知る人も無い。名水だったのだろうと思う。時間があればこの名水を探してみたいところである。 いつも三上山から見るだけだった菩提寺山に登った。山頂へは南桜側からと菩提寺側からのアプローチがあるが、展望が楽しめる菩提寺公園をスタートした。湖南市菩提寺まちつくりセンターに車を駐車し、公園内から山頂を目指した。山頂手前に、展望の良い大きな岩がいくつかあり、その上からいろいろな方角を見られる。下山後は、西應寺に立ち寄り庭園を見学した。四季咲きの雲南ハギががまだ楽しめた。白のタツナミソウ、チリアヤメ、クチベニシランも綺麗だった。 自宅−菩提寺まちつくりセンター(9:50、9:57出発)−林道終点登山口(10:18)−展望岩1(10:32〜10:37)−展望岩2(10:44、昼食)−菩提寺山353m(12:26〜12:37)−竜王社・南峰(12:40〜12:42)−神社下山分岐(12:45)−巡視路分岐(13:11〜13:23)−高圧線下(13:24)−和田神社(13:30〜13:35)−西應寺(13:41〜14:08)−菩提寺まちつくりセンター(14:25、14:30出発)−自宅 行動時間:4時間30分 歩行距離:4.5q 累積登高:295m 菩提寺まちつくりセンターから見た菩提寺山 思いのほか時間がかかり、湖南市菩提寺まちつくりセンターに着く。大きな駐車場があってほんの数台だけの車だった。お墓の横の林道を詰めるとあるが、菩提寺公園内を進む。タニウツギ、モチツツジが見られる。菩提寺山の表示があって、途中から林道(旧)に入り、詰めたところから登山道が始まる。子供ずれの若いお母さんに連れられた子供がにぎやかだ。最初からいかにも滑りやすい坂だが、乾燥して靴が地面をよくとらえてくれる。やや急な坂だが、山頂まではそれほどの距離ではない。モチツツジが次々と現れる。ツクバネツツジも多い。大御影山で見るものよりは小ぶりの花である。木も日陰のせいもあって弱弱しい。15分も歩けば最初の展望岩に出る。東方向の金勝アルプスから阿星山、十二坊の湖南の山が一望できる。北の方角には鈴鹿の山々が遠くに展望できる。 十二坊、その奥に鈴鹿の山々 大きな岩を縫うように歩き、展望台と書かれた岩からは東方向から北方向が展開する。比叡山〜比良山系、三上山、その先の北の山々である。山頂に着く前に、人が数名は横になれそうな大きな岩の上で昼にする。眼下は懐かしい南桜の集落である。いろいろ物思いにふけりながら、昼寝をする。 先に行った子供たちの声がして、山頂から降りてきた。これをきっかけに歩きの再スタートをきる。しばらく急な道を登り、しばらくで山頂に着く。南桜(野洲市)と菩提寺(湖南市)の境にあたり、両方の地域の表示杭がそれぞれ数本競うように打ち込んでいる。昔のように毎年か、数年に一度かのようでなく、幾分少なくなっている。面白い習わしだ。 山頂は樹林帯の中、今頃みられる花の写真に、山頂表示、下山口の案内である。ちょうど十字路のようになっている。 菩提寺山頂 少し南に下って登り返せば、竜王社のある南峰である。南峰というほどの規模のものでないが、少し先は開かれて、湖南の山々が一段と目の前に展開する。 竜王社 金勝アルプスから阿星山、飯道山 この先は急な下り坂で、廃寺となった小菩提寺の遺跡が残る歴史の道とある。石仏、摩崖仏、かっての寺の遺跡が確認される。花がないかと、少し戻った谷筋への道を選ぶ。こちらはうっそうとして、あまり整備がされていない。やや荒れた雰囲気である。落葉で滑りやすくなったところもある。花もほとんどなく、モチツツジも少ない。やや期待外れの中を進み、分岐に出る。左手は巡視路と思われる階段の道、右手進行方向は、高圧電線の明るいところから、登山道が続く。最初、巡視路を先に進むが、その先が通常の登山らしくなく、しばらくで分岐に戻り、道なりに進む。行きついた先は、和田神社の鳥居のところで、一旦は神社内に入り、参拝、写真を撮る。その後は階段を降り、集落の道を北東方向に進む。後で考えたところ、先の巡視路は西應寺に出る道だった。集落内を進むと、西應寺駐車場の案内が出てきて、さらに、寺の門が見える。庭園が素晴らしいとの案内を見ており、この機会に鑑賞することにした。寺内で子供とそのいとこの2人を見守る夫人がおられ、お寺を案内してもらう。観光協力金500円を支払い、パンフレットとともに、部屋に飾ってある「紙本著色小菩提寺絵図」を説明していただく。詳細は脚注参考のこと。庭園や寺内には、四季咲きのウンナン(雲南)ハギ、チリアヤメ(種と株をいただく)、クチベニシラン、白いタツナミソウ、シャクナゲ、花弁が切り込んだツツジなど、花を楽しむことができる。昔の名残の大岩など庭園を一周する形で散策した。 西應寺庭園 「紙本著色小菩提寺絵図」 この後は、教えてもらった道を駐車場所まで戻った。 、 西應寺の花
登山中に出会った花 コースマップ(YAMAPより引用) (国土地理院の地図を引用) 注釈: ・西應寺関連: 廃少菩提寺(はいしょうぼだいじ)は滋賀県湖南市菩提寺にある廃寺である。歴史は、聖武天皇の勅願により、良弁(ろうべん)によって731年(天平3年)に創建された。廃寺跡に立地する西應寺所有の1492年(明応元年)の図を模写したとされる「圓滿山少菩提寺四至封彊之繪圖」によれば、塔、金堂、講堂、鐘楼、経蔵、僧坊、食堂と、37の里坊が立っていた。1570年(元亀元年)に、織田信長と戦って敗残した六角氏の兵によって寺院が焼き討ちされ、廃寺となった[3]。織田信長の軍勢が焼き討ちをしたという俗説は、誤っている。石造文化財としては、廃少菩提寺跡には、閻魔像、多宝塔、地蔵尊像や、多くの摩崖仏が残されている。(ウイキペディアより) 圓滿山少菩提寺四至封彊之繪圖 湖南市観光協会の説明には次のように記載されている。 「この地域には、奈良興福寺の別院として、円満山少菩提寺があった。この寺には数多くの大伽藍があり、奈良時代、聖武天皇の国家繁栄と安泰を願い、良弁僧正によって創設されたした古刹である。山上や山麓の広範な地域に大金堂、三重塔、開山堂などを中心に、7つの神社、36の僧坊があった。元亀2年(1571年)戦国乱世の世、織田信長の兵火によって全山は殆んど焼失し、それらの礎石を残すのみとなりました。このうち禅祥坊が現存の西応寺の前身であります。寺宝の明応元年(1492年)4月25日の記録のある古絵図には、盛時の状況が克明に描かれており、現在の山裾に禅祥坊があったことがうかがえます。 本庭園は山と樹林と空を背景として、大きい築山の間に枯滝・枯流れを設け、建物の前面から西の山裾にかけて細長い枯池をめぐらした、いわゆる枯山水の庭であるが、水を流せば谷川となり池に湛えられるような写実的な表現をとっています。多数の石組みには鈍穴流の手法が生かされており、枯滝石組や渓流に架けた上下ちがいの石橋、曲池西側の石橋、築山の飛石の分岐点に捉えられた3石を寄せた踏分石などは独特であります。形式を異にし、大小高低様々な石灯籠や石擬宝珠柱などが置かれています。東の一段高い台地には楼が建立されて、高さ33尺(約10m)もの巨大な十三重石塔が並び立っているのが目を引きます。それに続く山裾にも三尊石を中心とする石組や、降雨の折の排水を兼ねた枯流れが設けられています。主庭のほかに客殿・書院・庫裡をめぐる小空間にも、それぞれに趣向をこらした庭が見られます。 2020年山の記録に戻る 2020年花・鳥・その他に戻る 作成日: 2020年5月25日 |