4)長命寺山333m〜津田山425m :2020年1月16日 2020年山の記録に戻る 長命寺は、西国三十三所の第三十一番札所にあたり、かっては三十番札所の竹生島宝厳寺から船で長命寺に参詣したということである。それに山を加えた長命寺山は、それほど知られておらず、樹林帯の中の平凡な山頂である。最近の台風の影響で、倒木があって荒れ果てた雰囲気がある。津田山(奥島山)は稜線上を進んだ先にあり、山頂は眺望に乏しいが、その先の大岩からは、琵琶湖や比良山系が楽しめる。 長命寺前麓駐車場(9:25、9:30出発)−長命寺参拝(950〜9:58)−分岐(10:10)−長命寺山(10:18〜10:25)−分岐(10:30)−津田山手前の祠・(11:00〜11:45、昼食)−津田山山頂(11:48〜12;00:)−天之御中主尊石碑・大岩(12:10〜12:20)−分岐広場・林道出合(12:45)−若宮神社(13:10)−長命寺前麓駐車場(13:51〜14:00出発) 行動時間:4時間25分 歩行時間:3時間 歩行距離:8.72q 累積登高:約470m 長命寺と書かれた石柱が石の階段前にあり、808段の石段が続く。幅広の階段であるが、先日の愛宕山ほどではない。 長命寺と書かれた石柱と808段の石の階段 1段づつゆっくりと歩く。上の駐車場を過ぎれば、しばらくで本堂前に着く。案内にあるようにちょうど20分くらいかかる。本堂でお参りを済ませ、鐘楼、塔などを撮影し山頂への道を尋ねる。 長命寺 一旦は寺の駐車場に戻らなければということだったが、鐘楼前の舗装道を進むと、上の方の針金の垣根の下がくぐれるように針金が曲げられている。少しかがむような格好で通り抜け、登山道に入る。ここから10分ほど歩けば、長命寺山への分岐になり、表示が出ている。倒木があって歩きにくいが踏み跡のある道を進めば、10分弱で山頂である。葉が散っているとはいえ、何もない見通しのきかない山頂である。早々に立ち去る。元の道に戻り、落葉・常緑広葉樹、スギ林の中を30分弱歩けば、山頂直前の広場になる。祠と、ちょうど腰掛けるに適当な囲いがあって、ここに腰を下ろす。大岩を祭ったとあって、ここにも大きな岩が鎮座している。 カップ麺にその他のおやつを加え、周辺を散策する。少しばかり肌寒く、防寒着を羽織る。撮影を済ませた後、先に進むが、すぐに山頂である。こちらは山頂表示がある狭い広場であるが、腰掛けるには適当ではない。ここも見通しは全くなく、しばらくいた後先を進む。しばらく進んだ先には、樹木の間から琵琶湖や比良山系が見通せる。ゲレンデのある蓬莱山が白く雪を被っているが、人工の雪ということになる。 赤い実とミヤマシキミの実を撮影しながら少し下ってその先に、大岩が現れる。天之御中主尊石碑が立っており、大岩がドカンと鎮座している。絶好の撮影ポイントで、沖島、比叡山〜比良山系の眺望が楽しめる。 沖島 比良山の山容 天之御中主尊石碑と大岩 地図上では下る道があるように記載され、少し踏み跡もあるようであるがすぐになくなりとても歩けない。 ここを過ぎると下りになる。場所によってはやや急な道にもなるが、特別歩きにくいというわけではない。30分弱ほど歩けば、林道が来ている広場になる。左手に、ササの中に道があり、国民休暇村に向かうこともでき、林道を下った先で合流することができる。本来の登山道である。さらに、戻る格好で林道が伸びて山すそを歩くようになっているが、どこに出るかは不明である。舗装された林道を選択し、道を進む。かなり歩いたところで、先の登山道と思われる休暇村への道が合わさる。林道を歩くこと、25分、若宮神社に到着する。左手に進めば、元の駐車場に行く、県道が走っているが、右折し、集落の中の道を山すそを歩く格好で歩く。 曇りの天気予報は、昼前から青空になり、風もなく、気持ちの良い歩きになる。集落歩きを経て、40分で長命寺前の駐車場に戻った。少し港に出てオオバン越しに琵琶湖の写真を撮り車を走らせた。 注釈: 長命寺(ちょうめいじ)は、滋賀県近江八幡市にある寺院。山号は姨綺耶山(いきやさん)。西国三十三所第三十一番札所。天台宗系単立。聖徳太子の開基と伝える。琵琶湖畔にそびえる長命寺山の山腹に位置し、麓から本堂に至る808段の長い階段で知られる。かつての巡礼者は、三十番札所の竹生島宝厳寺から船で長命寺に参詣した。伝承によれば、第12代景行天皇の時代に、武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り長寿を祈願した。このため宿禰は300歳の長命を保ったと伝えられる。その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている。実際の創建年次や創建の事情については未詳であり、確実な史料における長命寺の寺号の初見は、承保元年(1074年)3月2日付の「奥島庄司土師助正畠地寄進状」という文書である。元暦元年(1184年)、佐々木定綱が戦死した父佐々木秀義の菩提を弔うために、三仏堂を建立したのを皮切りに、平安時代後期に仁王門、本堂、鐘楼、太子堂、護摩堂、宝塔などを建立し、伽藍が整った。鎌倉時代を通じて近江守護佐々木六角氏の崇敬を受けている。長命寺には中世以降の文書が豊富に残されている。それによると、中世の長命寺は比叡山延暦寺西塔の別院としての地位を保ち、室町時代に入っても変わらずに守護六角氏の崇敬と庇護を受けて栄えた。しかし、永正13年(1516年)、六角高頼と伊庭貞隆の対立による兵火・伊庭氏の乱により伽藍が全焼する。現存する堂宇は室町時代から江戸時代初期にかけて再建されたものである.本尊は、「千手十一面聖観世音菩薩三尊一体」、つまり、千手観音、十一面観音、聖観音(しょうかんのん)の3体が長命寺の本尊であるとされている。本堂内陣の厨子には、中央に千手観音像、向かって右に十一面観音像、左に聖観音像が安置されている(いずれも重要文化財、秘仏)。 コースマップ(YAMAPより引用) (国土地理院の地図を引用) 2019年山の記録に戻る 作成日: 2020年1月21日 |