2)岡山(水茎岡山城址)333m・藤ヶ崎龍神 :2021年1月6日 2021年山の記録に戻る   2021年花・鳥その他へ戻る

 琵琶湖に突き出た山城を歩いた。一昨年に記録があるが、2年の歳月は山頂付近をさらに変えていた。まずは藤ヶ崎龍神に寄った後、後方の山(西峰)を目指した。何となく入りにくい林道から進み、10年前の記録を参考にすすむがどこもかしこも背丈以上のササが行く手を遮る。地理院の地図の山頂に近い崖を藪こぎをしながらよじ登った。山頂らしき付近は、背丈以上のササが生い茂り、それらしき地点で切り上げた。岡山水茎城址は、一部崩れかけた長い石の階段を登り、あとは道しるべとなる黄色のロープを頼って進んだ。山頂付近は平坦だがササが生い茂りわずかに山頂表示があるのみで、城跡は全く感じられなかった。雨の後の登山はお勧めできない。藤ケ崎龍神からの琵琶湖の眺めが素晴らしい。 

岡山園地駐車場(9:50、9:58出発)−西峰登山口(10:09)−藤ヶ崎龍神(10:15〜10:25)−西峰登山口(10:30)−万葉歌碑(10:43)−西峰(11:02)−岡山北登山口(11:38)-岡山山頂(12:00)−(12:05〜12:45、昼食)−北登山口(13:04)−岡山園地駐車場(13:06
           行動時間:3時間8分  歩行距離:3.7q  累積登高:203m

岡山園地の駐車場に車を止め、湖岸の景色を眺めた後、藤ヶ崎龍神に向かう。正月らしく、お参りの人も多い。ここからの眺めは素晴らしく、澄み切った青空、コバルトブルーの湖の背景に白い比良山系と高島の山並みが浮かぶ。湖上のヨットも彩を添える。
津田山、八幡山、きぬがさ山

比良山系

湖岸の近くには、キンクロハジロ、オオバン、初めて見るハジロカイツブリなどの水鳥が多い。洞窟の中に入り丁重にお参りし、林道入口より先を進む。笹が刈り込まれ、広い道を辿ってゆく。緩やかな勾配になっている。両端の笹は背丈より高く、密集し、入り混むすきがない。雪が被ったところは上からふみつけられるが、すぐに行き止まりになる。刈り込まれた道はやがて下りになり、万葉歌碑にたどり着く。
万葉歌碑
10年前のコース記録にはこのあたりから尾根筋に登っているようであるが、密集した背丈以上の笹が行く手を阻む。どこかとりつきはないかと行きつ戻りつし、ポールの立った、急斜面を地図ナビを頼りに藪こぎをする。つる性の木が絡まり中々苦労する。比較的空間がったが、上の平坦な部分は、ささや、大小の樹木で覆われている。どこも密集の雑木林、ピークらしき所をうろついて、山頂表示の確認をあきらめ元の林道に降り立った。
こんな状態がピーク

元来た道を引き返し、途中、竹林の中をすすもうとしたが、登った先がまたブッシュ、林道に合うはずがこちらも、全くその様子がない。元の林道に戻り、湖岸道路を進み、水茎岡山城の石碑の立つ北登山口に着く。長い、一部崩れかけた石の階段が続く。一段一段気を付けながらゆっくりと上がる。登り切った先から登山道になる。一部樹間から景色も眺められる。その後は、あまり歩かれていない道で、両方にはロープが張って、先導してくれる。所々で踏み跡がなくなるが、ロープは続く。
途中の登山道

平坦になってからもロープを頼りに笹で覆われた道を進む。雨の後ならずぶぬれになる。笹をかき分けて着いた先の山頂は、笹の中に古いベンチがあるが、笹の葉や枯葉があって、とても休む気にならない。
背の高い笹に覆われた山頂
お昼時になっているが、少し戻った先の枯葉の上に陣取る。カップ?やコーヒー、コーンスープと温かいものづくし、時間もかかる。この山、人が寄り付かないだけあって、鳥も多そうだ。何とかコガラだけは撮影できた。少し長めの昼休みを終え、元来た道を引き返す。あっという間に階段を下り、駐車場に戻った。この園地、湖岸の眺めは抜群で、トイレも設置されている。砂浜で水泳場で栄えた後がよく分かるが、設備は老朽化している。
時間も早く、長命寺に行くことにした。数q先にある。
渡り鳥(オオバン、キンクロハジロ、)

     
 ハジロカイツブリ  オオバン他  キンクロハジロ


注釈:水茎岡山城
水茎岡山城(みずぐきおかやまじょう)は、滋賀県近江八幡市牧町に築かれた日本の城。尾山城岡山城九里城とも呼ばれる。南北朝時代、近江南部をおさめる佐々木氏が琵琶湖の水上警備のために築城した。頭山、岡山(大山)と呼ばれる山に連なるように遺構が確認されているが築城当時の規模ははっきりとしない。永正5年(1508年)、室町幕府の11代征夷大将軍・足利義澄が城主九里信隆(六角氏被官)を頼って都落ちをし、水茎岡山城に入った頃から、城の本格的な築城が行われた。永正7年(1510年)、幕府軍3000に城を包囲されるも信隆はこれを退けている。永正8年(1511年)、当城で後の12代将軍・足利義晴が誕生した。また、同年に足利義澄は帰洛を果たせぬまま当城で病没した。永正11年(1514年)、信隆が六角高頼に謀殺される。永正17年(1520年)、信隆の子浄椿が六角高頼・定頼父子および細川高国の連合軍に敗れ、城が落城した。なお、当時の公家の日記(『二水記』永正17年8月11日条)によれば、当時の六角氏当主であった六角定頼は近江クノリ(=九里)城を攻めるために細川高国に要請して五反帆の大船を兵庫津から琵琶湖に回航させているが、(京都から先は船では入れなかったために)牛車を用いて京都市中を引っ張って近江国内まで陸送を行い、京都の人々を驚かせたと記している。大永5年(1525年)、九里氏の残党が城に立て籠もるも敗れ、九里氏は滅亡した。この頃に廃城になったと考えられている。築城当時は一帯が琵琶湖水面であったため、浮き城とも称されていた。しかし、第二次世界大戦後の干拓事業により一帯は埋め立てられ水田地帯となり山も掘削され湖岸道路となっていることから周辺環境は様変わりしてしまっている。遺構の現況は竹林となっており、絶景を謳われた往時の景観は見る影もない。(ウイキペディアより)

コースマップ(YAMAPより引用)
(国土地理院の地図を引用)

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作成日: 2021年1月10日