白髪岳(しらがたけ)は兵庫県篠山市にある標高721.8mの山である。加古川水系と武庫川水系の分水嶺になる。関西百名山の一つで、南側から望めば、
綺麗な両肩をいからせたような山容が特徴で、「丹波富士」とも称され秀麗な山容が特徴的である。頂上からはほぼ360度の展望が可能で、二等三角点が存
在する。隣に位置する松尾山(高仙寺山)688.0m とは続き尾根となっており、双方の登山が周回ルートにもなる。松尾山は山頂に松尾城本丸跡や高仙寺跡(
酒井城)などの史跡があり、高仙寺城は、矢代酒井党の惣領主水介氏治が築いたとされ、氏治は南矢代城を本拠にしていたが、明智光秀の丹波攻めが始
まると、さらに酒井党が割拠する諸城の要城として、標高もある峻険な松尾山上に新たな城を築いたという。他に、千年杉、高仙寺の僧侶の墓である卵塔群
、三基の石仏、阿弥陀堂跡、愛宕堂や高仙寺本堂跡、などの史跡も残る。登山ルートであるが、@住山ルートと呼ばれる、 古市駅から約500m西進し天神川
沿いに北上する住山から取り付く一般的なコースと、A文保寺ルートと呼ばれる、 味間の文保寺から松尾山〜白髪岳とたどるコースの2つである。(ウイキペ
ディアより)
今回は、@のコースで白髪岳〜松尾山と登り、Aの文保寺を経由してからJR篠山口駅に下山した。
守山駅(7:36)−大阪(8:29、8:30快速乗り換え)−古市駅(9:36、9:40出発)−宗玄寺日限地藏−住山集落白髪・松尾分岐(10:15)−サクラ公園(10:25)−登山
口(10:30)−白髭岳山頂(11:05〜11:20、昼食)−松尾山(11:52〜11:57)−文保寺山門(12:30)−茶畑(お茶屋さん−大国寺〜JR篠山口(13:15、11:38快速)
−尼崎(14:33、14:38乗り換え)−守山駅(15:53)
歩行時間: 3時間10分 (休憩時間25分)
JR福知山線古市駅から車道を北方向に進む。目の前に白髪岳〜松尾山の山が展開する。山腹、山全体に白いコブシの花が咲いている。道なりに進み、石
垣の集落のところで、左に進むと白髪岳、右に進むと松尾山の表示がある。今回は白髪岳から松尾山への縦走コースをとる。左手に進む。舗装道は未舗装
のなだらかな坂で、10分でサクラ公園、この時期、名前の通り桜が満開であった。更に5分ほどで、左手に東屋があり、住山生活環境保全林の表示板が設置
されている場所に着く。ここから登山道が始まる。ツバキがいっぱいに咲いている。山頂への表示があり、杉林の中の道である。やがて、雑木林になり、登り
きると尾根筋に出る。露岩の道が続く。狭い尾根筋で、岩をよけながらになる。尾根筋からはコブシの白い花が目につく。最後に、綱の張った登山道を登りき
ると白髪岳山頂である。二等三角点が置かれている。360度のパノラマで、山並み、集落、河川などが眼下に広がる。昼食には早い時間であったが、眺望を
楽しみながら、サッサと済ませる。松尾山へは、さらに北方向に急な下り坂を行く。次第に東方向になり、しばらく東進する。途中、文保寺に下りる道と分れ、
最後に登りきれば松尾山山頂である。山頂表示には高仙寺山の別名も書かれている。城址の文字も見える。酒井城跡で山城だった。山頂は木立の中、見
晴らしはない。 5分ほどの休憩で、元来た木々の中の道を引き返し、文保寺方面へ下る。樹木の道である。所々急で、綱がある。地藏、肩越の辻、と過ぎ、
杉林になる。ササの茂ったところや、時には急なところでは、ロープも張ってある。谷間の雰囲気が出て、その先に篠山の町が見える。やがて細い山道から、
舗装道に出る。白髪岳の表示がある。ここからしばらくで松尾山山門に出る。由緒正しき、古刹である。文保寺本堂、鐘楼と駆け足でお寺をまわり、大勝院
・眞如院、観明院、立派な二村神社、白髪岳の案内板、桜門、大きな鳥居には二村大明神と書かれている。やがて、一面茶畑が広がる。振り返れば山には
コブシの白い花、やがて176号を歩き、JR篠山口に着いた。
今回は残念ながら写真無の登山になった。
解説
文保寺は、大化元年(645年)に法道仙人(ほうどうせんにん)によって開かれ、自作の聖観世音菩薩を本尊として安置し、聖備山長流寺(しょうびざんちょうりゅ
うじ)と称されていた。法道仙人は、印度より中国を経て日本に仏教を伝えたと云われ、瀬戸内海を経て加古川上流域の播磨・丹波地方を中心に200ケ寺以
上の多くの山岳寺院を開き、特に天台真言系の寺院が多くなっている。最盛期には堂舎21坊を数えたと云われ、元禄6年(1693年)の寺社改帳には、自光院
、龍花院、真如院、観明院、源智坊、行定坊、一乗院、吉祥坊、西教坊、常光坊、中蔵坊、教蔵坊、善光坊、宝住坊、本性坊、本仙坊、泉蔵坊、山本坊、極
楽坊、持正坊、理教坊の5院16坊があったと記されている。開基より聖備山長流寺と称されていたが、天暦の乱(947年)に堂舎悉く焼失し、荒廃の極みに至る
。正和年間(1312〜1317年)花園天皇の御代に慈覚大師作という千手観世音菩薩を安置し再興された。文保年間(1317〜1319年)宝鏡寺の宮門跡一品親王
真筆の勅額を下賜されて以後、「文保寺」と称す。その後、堂舎も整備され、往時の状態に復したようだが、戦国時代末の天正年間(1573〜1592年)に明智
光秀の丹波攻めに遭い、再び全山悉く灰燼に帰した。江戸時代中頃になって復興、真如院、大勝院、観明院、本覚院、林城院、慈明院の6院となり、現在は
、真如院、大勝院、観明院の3院となっている。(寺社説明より)
行程マップ
(国土地理院の地図より引用)
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作成日:2017年3月16日
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