6)壺阪寺・高取山(583.9m)・明日香:2016年3月8日 2016年山の記録に戻る 、チョウのページに戻る、花・鳥・その他に戻る 高取山山頂には、かっては高取城(たかとりじょう)があった。現在は高取城址として存在する。この城、奈良県高市郡高取町高取にあった日本の城である。別名、高取山城。江戸時代は高取藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。城は、高取町から4キロメートル程南東にある、標高583.9メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城である。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建て並べられ、城下町より望む姿は「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と謡われた。なお、土佐とは高取の旧名である。曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ。日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。元和元年(1615年)の一国一城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残されている。殆どの建物は失われたが、遺構は人里離れた山頂にあることが幸いし、人為的に崩壊することなくほぼ完全な状態をとどめている。しかし、樹木が生長し根が張り出したり、維持管理や補修が充分でない事から石垣の形が崩れたり崩落の危険がある箇所もある。貴重な城郭資料として昭和28年(1953年)3月31日に国の史跡に指定された。平成18年(2006年)に、日本100名城に選定された。 近畿日本鉄道の」てくてくマップによれば『2万5千石の城下町として栄えた高取の、繁栄の中心であった土佐の町。昔を物語るように、長々と続く低い軒さき格子戸の古い家並みを抜けると、やがて杉・桧林が続く山道に入る。その先には、西国三十三ヵ所第六番札所の「壷阪寺」。浄瑠璃「壷坂霊験記」のお里・沢市物語で知られる古刹だ。ここからいくつかの急な上り坂を経て、高取山へ向かう。途中、凹凸の巨石一面に刻まれた、大迫力の五百羅漢石仏群があるので見ていこう。標高584メートルの高取山の上には、「高取城跡」がある。「巽高取雪かとみれば 雪でござらぬ土佐の城」と謳われた城は、現在では石垣を残すのみだが、その規模は広大。本丸跡から吉野・大峰などの山々が一望できる。くねくねと曲がりくねった、七曲りの坂道を進み、二ノ門跡の辺りまで来ると、栢森へ行く分かれ道(こっちに入らないよう注意)があり、その分岐に「猿石」がどっかと腰をおろしている。元禄年間に明日香村で発掘され、運ばれたというが、刻まれた顔は、猿とも人とも判別しがたい。猿石を過ぎてさらに進むと、徐々に展望が開け、田園風景が広がる。もと高取藩の家老屋敷である「植村邸」を過ぎたところで、コース序盤の道へ合流。起点の壷阪山駅へ向かう。 』と案内がある。 (ウイキペディアより) 守山駅(7:01)−京都駅(7:27、7:40近鉄)−橿原神宮前(8:49、9:00)−壺阪山(9:07、出発)−高取町ひな祭り見学−車道(9:41)−壺阪寺ハイキングコース分岐(9:46)−壺阪寺(10:03〜10:32、見学)−五百羅漢分岐(10:41)−五百羅漢(10:44〜10:47−五百羅漢周遊コース−合流点(10:54)−高取城址分岐(11:03)−八幡神社(11:11)−参道合流点(11:16)−高取山(高取城址)(11:40〜12:00、昼食)−二の門跡(猿岩)(12:15)−キトラ分岐(12:33)−栢森(県道15号)(12:45、周辺散策12:53)−飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(13:12)−稲渕の棚田展望所(12:30)−石舞台古墳(13:52〜13:56)−亀石(14:15)−鬼の俎・雪隠(14:27)−欽明天皇陵(14:36)−飛鳥駅(14:44、14:58)−橿原神宮前(13:03、13:10)−京都駅(15:22、15:31)−守山駅(15:57) 行動時間:5時間37分 休憩時間:約30分含まず 実質歩き:5時間程度 このコース、山の会の例会で3日前の3月5日に実施された。当初、参加を予定していたが孫のお守が入り、参加できなかった。高取のひな祭は3月いっぱいは開催中だが、何はさておき早めにトレースした。記録では19qあり、結構な歩きである。壺阪寺では何組かのグループが下りる。皆は町屋を抜け、高取城址に向かう。ひな祭りと壺阪寺は帰りのようだ。町屋のおひなさんは90ほどあるようだが、いずれも一般家庭にあるようなおひなさまである。古い町家の雰囲気が出ている。道の駅のりっぱなおひなさまは、週日とあって10:00以降に開かれるのか、閉まったままであった。おひなさまを見ながら30分ほどで池のそばを通り、車道に出る。案内に従い、左折し車道を進むが5分で壺阪寺ハイキングコースと書かれた表示に従って左の細い道に入る。竹林の中を進むが、やがて杉林になる。15分ほどで最後に急な階段を登りきると壺阪寺に出る。西国三十三ヵ所第六番札所であり、600円を払ってお参りする。大講堂には立派なおひなさまが飾られている。三重塔、礼堂、多宝塔、本堂を見学、天竺渡来の如来石像、その他の石像見学をすませる。お寺からは町が見下ろせる。受付の横の階段を登り、車道に入る。10分ほどで五百羅漢分岐から山道に入る。五百羅漢はすぐで、岩に刻まれた像と石像が立ち並ぶ。五百羅漢周遊コースの方を選択し、更に登って行く。ヒノキ林が広葉樹林に変わり、いくつかの岩にレリーフが彫られている。登りきって、下ったところが合流点になる。このあたり又ヒノキ林になる。さらに進むと、一旦は車道に出、すぐに高取城址の表示が出て、山道に入るが、急坂を登る道が右手に分かれる。ここを右手に取って、急坂を登ると古い八幡神社に出る。石の階段(参道)を下った先が、先ほどの高取城址の合流点になる。本丸まで550m、杉林を進み、石垣が現れ、いくつか石垣を曲がりくねって本丸跡に到着する。最後に郡山からの80歳の方と話をし、お昼を一緒する。天気はまずまずだが、黄砂の影響で遠くはかすんでいる。遠くの大台ケ原や台高の山々は良く見えなかった。コーヒを入れ、一時の休憩を楽しむ。道は半分になっていない。先を進む。先の壺阪口門方向を左手に分け、直進する。武家屋敷跡、崩れている石垣の間の道を進む。杉林の中の道である。二の門跡のところに猿石があって、明日香村・柏森への分岐である。しばらくは立派な竹林である。結構続く。やがて杉が混じりだし、杉林となる。キトラ古墳方向を分け、12分で15号線に出る。栢森の「綱掛神事」.が目を引く。稲淵にも出てくる。栢森集落に少し向かう。奥明日香と案内がある。元に戻り、車道を歩く。なかなか良い雰囲気の里である。道から急な階段があって、その前にいる地元の方に話を聞くと、由緒ある神社で最近TVに出たということで、200段の石段を登ることになった。なるほど古い社で、名前は後ほど調べた。ここから20分弱で、稲淵の棚田に出る。橋の上に「綱掛神事」があり.ここから案山子ロードが始まる。9月には盛大に案山子が飾られ、ヒガンバナを目当てにたくさんの人で賑わう。絶好の景色である。20分で石舞台古墳に至る。赤いウメが咲き、何とも心が和らぐ。下山の途中や、道歩きでテングチョウ、キタキチョウ、モンシロチョウを見ることができたが、このあたりの菜の花にイシガケチョウを見ることができた。最近は三重県の鈴鹿でも見たことがあるが、この時期とは驚いた。一気に春がやってきたといった印象だ。ここからは、飛鳥のハイキングコースになる。たくさんの観光客、サイクリングの若い人、皆それぞれに春を楽しんでいる。亀石、鬼の俎・雪隠、欽明天皇陵を楽しみ、飛鳥駅に到着した。4月上旬を思わせる陽気で汗もずいぶんだった。
@飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社 御祭神は宇須多伎比売命、 神功皇后 、応神天皇。奈良県の明日香村にあり、石舞台から更に南へ行く。車道から急な階段が見え、200段ほどの石段をあがると境内に出る。古式ゆかしい雰囲気のある社が構える。本殿はなく、拝殿は「遥拝造」で後ろにも扉がる。裏にも門があり、後方の山を拝する形となっている。社の御神体は、後方の山であり、三輪の大神と同様、山岳信仰の形態を取っている。創祀年代はわからず、式内社・飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社に比定される古社である。祭神の宇須多伎比売命は、飛鳥坐神社の裔神とされ、神社東方の大字畑には「ウスタケ」の小字が残っている。鎮座地稲淵は、皇極天皇が雨乞いをした南淵の河上で神社北方に南淵山があると言われている。平安時代以降、衰微し、近年までは宇佐八幡宮とも呼ばれていた。境内の燈籠にも「八幡宮」と刻まれている。明治初年まで雨乞いのナデモ踊「本なもで」が興行されていた。拝殿左右に境内社がある。資料によると境内社は、仁徳天皇社、武内社、明治天皇社らしい。この仁徳天皇社は、入谷鎮座の大仁保神社を遷座したもの。三代実録に記載されている国史見在社という説もあり旧地に社殿が残されている。最近TV番組に取り上げられた。 A壺阪寺 南に桜の名所吉野山を控え北に万葉のふるさと大和三山奈良盆地を一望におさめる壷阪の山に建つ。大宝3年(703)年に元興寺の僧、弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んでまつったのが始まりという。その後朝廷より壺阪山南法華寺の正式寺号を賜った。西国三十三所観音霊場の第六番札所。真言宗。本尊十一面千手観世音菩薩は眼病に霊験あらたかな観音様、目の観音様として全国各地から毎日多くの参拝者が訪れる。世の壷阪寺は豊臣秀吉の弟秀長の家来本多利久が高取城主となり、本多氏とその後明治の廃藩置県まで続く藩主植村氏の庇護を受け復興していった。明治の初め、盲目の夫沢市とその妻お里の夫婦の物語、人形浄瑠璃『壺坂霊験記』が初演され、歌舞伎、講談、浪曲となり壷阪寺の名は大きく世に広まっていった。戦後、壷阪寺は社会福祉活動に貢献し、昭和36年には、多くの善意が結実して、日本最初の養護盲老人ホーム「慈母園」を設立。現在も国内各地で社会福祉活動に寄与している。また、昭和39年より、インドにてハンセン病患者救済活動に着手し、教育助成事業や地域開発援助などの国際奉仕活動を、現在もインド各地にて幅広く行っている。(壺阪寺の案内より引用) 行程マップ (国土地理院の地図を引用) 2016年山の記録に戻る 、チョウのページに戻る、花・鳥・その他に戻る 作成日: 2016年3月3日 |