40)飯道山664m・康申山407m :2020年6月23日 2020年山の記録に戻る、、2020年チョウのページへ戻る、2020年花・鳥・その他に戻る 信楽の山として知られ、飯道山は全山が花崗岩からなり、西覗き岩・不動押し分け谷・蟻の塔渡し・胎内くぐり・鐘掛岩などの奇岩が各所にあって、1951年(昭和26年)に再興された飯道山行者講の修行場となっている。山上には、往時の遺構が他にものこり、飯道寺跡・行者堂・弁天堂・五院跡・木喰上人応其墓などがある。(飯道山観光協会より引用) 上記の観光協会には、甲賀の三霊山が紹介されており、その中で飯道山の説明として、役行者小角が開祖した山岳信仰の拠点で、中世は山中に数多くの僧坊があり、山伏の修験場として栄え、忍者との密接な関係であると紹介されている。さらに、庚申山は(標高420m)は、真鍮の神様で知られる広徳寺があり、山頂からの展望は心を癒すと記載されている。最後の3山、岩尾山(標高471m)は、最澄が開山し修験の場であり、巨石、自然石が至る所に点在し、当時の自然信仰を偲ばせると紹介されている。 甲賀3霊山で残っていた康申山に登った。当初、小野登山口から康申山を経て康申山登山口に下り、道徳時林道〜三大時林道から飯道山山頂に達し、飯道神社から堀越林道を下る予定であった。康申山山頂で素晴らしい眺望を楽しんだ後、山頂から引き返し、堀越林道を往復することに切り替えた。林道ではササユリが綺麗だった。飯道山の山頂では大きなクリの木にたくさんのチョウが舞っていた。 自宅(7:50)−小野登山口駐車場(9:35、9:46出発)−康申山林道分岐(9:53)−広徳寺(10:10)−康申山(10:16〜10:26)−小野登山口駐車場(10:56)−堀越林道口(11:07)−堀越林道−飯道神社分岐(11:57)−杖の権現茶屋(12:00)−飯道山山頂664m(12:10〜12:55)−林道口(13:08)−林道分岐・飯道寺跡口(13:11)−飯道神社(13:18〜13:24)−林道分岐(13:33)−堀越林道出合(13:51)−堀越林道口(14:10)−小野登山口駐車場(14:16、14:26出発)−自宅 行動時間:4時間30分 歩行距離:10.9q 累積登高:554m Webと地図ナビを確認しながら、登山口のある小野登山口付近に着く。307号線と信楽高原鉄道が近接するところに康申山の案内と大きな広っぱがある。307号線をはずれ、踏切を渡った林道横の木陰に車を止める。しばらくして、康申山から戻ってきた車が横に止まり、これから飯道山に行くという地元の人だった。簡単な会話をしてから、康申山林道を歩く。 登山口の駐車場所、右、康申山、左、飯道山 日が当たり暑い中である。康申山への行きも帰りもほどんどが舗装道路で、覚悟して歩く。しばらく道なりに行けば、車止めがあり、広徳寺・康申山へは離れる格好で右手に登っていく。ウツギや木の花が時々見られるが、やがて、大木の中の木陰の道である。くねくね曲がった舗装道をひたすら歩く。20分ほどで、石垣が現れ、石の階段がある。とりあえずは、正面の鳥居の前に出て、ここから本堂にお参りする。古刹、苔むした趣のあるたたずまいと雰囲気にあふれている。 広徳寺 この寺は真鍮にまつわる話で有名で、案内には 『真鍮の開祖として「庚申さん」と銅業関係者や地元の人々に親しみを持って呼ばれている庚申山広徳寺です。庚申山麓に籐左衛門という貧農が住んでおり、生計が苦しく郷を離れる決心をしたが、本尊を深く信仰していたのでおすがりする決心をし、文禄2年(1593)正月廣徳寺にこもり、断食し家運の隆盛を祈願したところ、 17日の満願の夜、銅に亜鉛を混ぜる合金の法を伝授された。』 と記載されている。 お参りを済ませ、付近を散策後、山頂に向かう。山頂と言っても、寺を突き切った展望台のあるところである。しかい、この展望台、180度をはるかに上回る展望が広がる。左端には、この後行く、飯道山が、正面から右手には鈴鹿山脈の南部分のほぼすべてを見ることができる。甲賀市の市街の奥に堂々たる山並みである。数多、鈴鹿山系を見てきたが、この展望が本当に目を見張るものだった。 左(北)御池岳から右(南)の油日岳の大展望 左は御池岳〜〜右は油日岳 当初予定は、そのまま、登山道を下り、康申山登山口から岩壺不動尊、杖の権現茶屋から飯道山に周遊する予定をしていたが、駐車場であった二人ずれの言葉が耳に残っており、引き返して飯道山を目指すことに切り替えた。お寺付近で、チョウの採取に来ていた1人に出会い少し言葉を交わした。行きも帰りも気の利いたチョウはいなかった。 30分で駐車場に戻り、少し休んだ後、307号線と信楽高原鉄道に沿った林道を歩く。しばらくで、堀越林道に入り、こちらも舗装道を歩く。川沿いの道だが、しばらくで右手にササユリが目に入る。ピンクの綺麗な花で、何株か見られる。何枚か撮影をして単調な林道をひたすら登ってゆく。車道で、それほど急な道ではない。 期待のミドリシジミ類には会うことができず。暑い中を黙々と歩く。まれに、シジミチョウが現れるがお目当てではなかった。飯道神社に出る分岐点まで1時間、辛い林道歩きだった。そそこからしばらくで杖の権現茶屋の休憩所に出る。東屋で座ることもできるが、まわりはクマザサで覆われ、やぶ蚊も出そうなことから、写真を撮って、すぐに登りにかかる。クマザサの急な道になるが、一気に登る。一旦は平坦になるが、最後はまたクマザサの急な登りになる。林道を長く歩いてきたせいか、結構長い登りと思たが、10分で山頂に着く。山頂では、先の地元の2人ずれが食事の後で、ゆっくりと休んでいた。ああと再会の声を掛け合った。木陰の少ないない山頂であるが、親切にも場所を譲ってくれた。飯道神社に寄って下山するということであった。山頂からは、鈴鹿の山が見えるが、康申山の展望台からの眺望の後は、全くつまらないものになってしまった。用意の昼食、冷たいおやつ、ゆっくりと味わう。大きなクリの木があり、たくさんのチョウが入れ替わり飛んでくる。少々距離があり、苦労しながらも撮影する。結構粘るが、気の利いたチョウには出会えなかった。 山頂 十分すぎるほどの時間を取ったあと、飯道神社に向かう。クマザサの道を一気に下る。林道口に出て、林道分岐・飯道寺跡方面を取る。林道を離れ、石垣や、寺跡をたどるが、往時はほとんど偲ばれない。スギ林を抜けると明るくなり、石垣積みの寺跡の出る。マムシソウが群生している。階段を下った先きが飯道神社の境内でトイレもある。昔の神社の外観が表示されている。その先を進むと飯道神社である。 飯道神社 比較的大きな広場で、本殿の奥に登ることができ、大きな岩の上からは湖南平野を中心に、山々が展望できる。三上山も頭を出している。しばらく眺めた後、本殿前に戻り、飯道神社登山口を過ぎ、スギ林の中を進む。しばらく進むと右に尾根筋が分岐する。地図ナビでは、登山道が記載されている。しかしながら、踏み跡はなく、昔のテープがある。ナビの道筋に沿って支尾根を下る。支尾根は踏み跡といえばそれらしき跡もあるが、谷筋へ下るようになっている。枝葉や、時には両手をつきながら急な斜面を谷筋に下る。通れるところを探しながら、地図ナビを何回も確認しながらやっとの思い出で林道に出ることができた。入口はわずかに踏み跡があり、ピンクのテープが枝につけてある。地図上では直線的にショートカットできるようであるが、大変な下りで、舗装された林道を進むことを薦める。やっとのことで堀越林道に出て、25分かけて駐車場に戻った。 堀越林道へやっと出た 帰りにも改めてササユリを眺め、少しばかりチョウにも出会い、今日の登山を終えた。駐車場では、朝出会った人が車で出発するところだった。 チョウ
コースマップ(YAMAPより引用) (国土地理院の地図を引用) 注釈: ・広徳寺(こうとくじ): 滋賀県甲賀市水口町山上にある天台宗の寺院。山号は庚申山。本尊は青面金剛尊。「(山上の)庚申さん」と呼ばれる。寺伝によれば、783年(延暦2年)に最澄が延暦寺建立の際、用材を求めて訪れたところ、山頂に光明輝き紫色の雲がたなびくのを見て、頂上に登ると、丈余の岩に稲妻が発し、その中に大青面金剛の霊姿を感得され、像を自作して祀ったのが始まりと伝わる。真鍮の始祖として江戸時代以降に真鍮関係者から信仰を集めた。1616年(元和2年)、後述する山上村の藤左衛門が堂宇を再建した。2013年4月22日、漏電火災で本殿を焼失し、2017年3月末に再建した。甲賀市の魅力ある風景である、であい・こうか八景の「甲賀の里を望む」、かつての水口町の観光水口八景の「庚申の秋色」に選ばれている。展望台があり、甲賀市を広く見渡すことができる。紅葉の名所として知られる。真鍮にまつわる信仰については、真鍮の始祖に関する伝承が伝わっている。麓の山上村の藤左衛門は貧農で生計が苦しく、本尊の青面金剛尊に深く帰依し、1593年(文禄2年)正月に広徳寺に籠り祈願をしたところ、満月の夜、銅に亜鉛を混ぜる合金の法を伝授され、1599年(慶長4年)に京都で試して真鍮の合金に成功したと伝わる。金の代用品や装飾品として、それまでは純金もしくは銅や青銅に金をメッキしていたが、メッキの剥落や変色、銅から緑青が出ることもなく、幅広く使われるようになり、画期的な製法であった。ただし、自力で開発したのではなく、大陸から伝わった製法を改良したと推測されている。この出世譚にあやかろうと、江戸時代には「真鍮元祖」「真鍮祖神」として江戸、京都、大坂の三都の金物屋から信仰されてきた。1851年(嘉永4年)には三都金物屋中が山麓周辺に多数の石造道標を建立した。とくに牛飼地先の国道307号沿いにある「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の像がついた道標が有名で、これは紀伊国屋三谷家の8代目長三郎が発起し京都の問屋5人が世話人として建てたものである。100以上の玉垣が寄進され、当時の全国の真鍮関係者がほぼ網羅されているという。中でも最も玉垣が多かったのは前述の紀伊国屋三谷家で、関係者を含めると9つあり、その他、常夜燈の寄進などもしている。大正期からは大阪の真鍮関係者からの支援が盛んになり、庚申講を母体とする大阪の黄銅組合の組合長、4代目坂根武兵衛が1922年(大正11年)に全国の真鍮業者に呼び掛けて山上庚申堂保存会を結成し、記念事業の開催と藤左衛門の銅像を建立した[2]。なお、この銅像は戦時中に供出されたが戦後に再建されている。(ウイキペディアより) ・甲賀3霊山 甲賀の三霊山とは、飯道山(標高664m)、役行者小角が開祖した山岳信仰の拠点で、中世は山中に数多くの僧坊があり、山伏の修験場として栄え、忍者との密接な関係であるといわれています。庚申山は(標高420m)、真鍮の神様で知られる広徳寺があり、山頂からの展望は心を癒してくれます。 また、最澄が開山し同じく修験の場であった岩尾山(標高471m)は巨石、自然石が至る所に点在し、当時の自然信仰を彷彿させます。悠久の歴史と修験の雰囲気を感じる甲賀三霊山へ、ぜひ来ていただきますようご案内申し上げます。(飯道山観光協会のホームページより引用) 2020年山の記録に戻る、、2020年チョウのページへ戻る、2020年花・鳥・その他に戻る 作成日: 2020年7月7日 |